どーもKABUOです。
巡る旅に行ってきました。
今回は村山市大久保にあります城跡、
大久保城の歴史と史跡をご紹介します。
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大久保城の歴史と史跡をご紹介!🏯
大久保城本丸跡
大久保城の歴史ですが
山形城主最上家3代目満直の三男、
最上満頼によって築城され
大窪氏と称しこの地を治ました。
当初この地に入部した満頼は
現在の大久保城より東にあります
宝鏡寺に館を設けたとされており、
時代とともに現在の大久保小学校あたりに
城を移城を行っていったと思われます。
現在大久保小学校がある場所が
大久保城の本丸跡地だとされており、
小学校校舎北西には神社がありました。
特に歴史や祭神の説明が無く
神社の歴史は不明です。
大久保城水壕跡
大久保城は最上川左岸の段丘上に立地し
標高90mの台地に築城された平台城、
南側の段崖上とそのその外側を流れる
千座川を天然の壕に見立て築城されており
北には田村川が流れておりますが
南に比べると平坦が続いており
防備面が手薄な北側には
幅約10m~20m程の水壕が巡らせています。
北西から北東にかけ
大久保小学校をを囲むように
現在でも水堀が残されており
遺構の状態も良好で見ごたえがありました。
大久保城南側
北へ北へと勢力拡大を図り
大久保を中心に最上川東側の統治を行うため
築城したと思われますが、
大久保城はネットサイトで調べてみても
特に記録らしい記録があまり残されておらず
大久保城より北には後に最上義光に滅ぼされた
白鳥氏の前城白鳥城や南には谷地城があり
中世戦国時代の様子がまったく分からず
どのように歴史を歩んだのかが
不明な点が多いことが特徴的なお城です。
こちらは大久保小学校南側の様子、
千座川が流れ大久保小学校の
グランドが整備されています。
南側から眺めると大久保小学校は
小高い丘に築城されて事がよくわかり、
またグランドがある平坦な土地は
お城の曲輪にも見えなくありません。
城西側・北側の街道沿い
南北朝動乱の時代
最上氏の最大の敵は西村山地方を支配した
寒河江大江氏でした。
1368年、漆川の合戦により
寒河江大江氏を戦いで破った最上氏は
村山地方の覇権を握り勢力を拡大させる中、
弱体したとはいえ
寒河江大江氏は健在しており、
その動向に警戒を行っていた事は想像出来ます。
最上川を挟んで東側には
天童城に高擶城があり(天童市)、
河北町谷地の北側には大久保城がある事から
四方を囲むように最上氏の支城を置き
寒河江大江氏の牽制を行い、
大久保城から見れば
寒河江大江氏の侵攻に備え、
城南側の防御面を意識した築城が行われ
村山市楯岡から碁点を通り大久保を結ぶ
主要な街道沿いに築城されている事から
交通の要地を抑える役割を
果たしていたものと推測されます。
その後歴史の表舞台に現れたのは
慶長年間(1596~1615年)
最上家家臣大久保主馬介が入城を果たし
3000石を領有したと記録に残されており
1622年、最上家の改易によって
大久保城も廃城になったと思われます。
大久保小学校より東にあります
宝鏡寺は大久保城の前身だとされ
南側・西側には幅約10m程の空壕が残り、
大久保主馬介により岩清水八幡宮から
勧請され創建された歴史を持ち
大久保の鎮守として地元の人に
愛された神社になります。
謎多き大久保城ですが
当時の歴史的背景を推測読み解きながら巡る
お城散策は結構楽しかったので
ぜひ観光に訪れてみてください
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