KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

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東根市 長瀞城と長瀞藩の歴史と史跡をご紹介!🏯

どーもKABUOです。

 

山形県東根市長瀞地区にありますお城跡、 

長瀞城と江戸時代米津氏が治めた

長瀞藩の歴史と史跡をご紹介します

 

 

 

 

 

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長瀞城と長瀞藩の歴史と史跡をご紹介!🏯

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長瀞城跡

 

東根市長瀞地区にあります

長瀞城跡(別名雁城城)

建長年間(1249~56年)に

西根氏によって創建されたと伝わります

 

南北朝動乱の時代

当時東根一帯は小田島荘地頭、

小田島氏によって統治されておりましたが

最上氏始祖、斯波兼頼との争いに破れ

東根一帯は最上氏の領土へと組み替えられ、

西根氏はその後、最上氏に家臣として

取り立てられる事となりました。

 

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禅会寺

 

斯波氏はその後最上と名前を改め

村山地方の勢力を拡大させるなか

1414年、最上家4代当主、

最上満家は家督を譲り長瀞城に隠居。

この地に移り住み菩提寺となる

禅会寺を創建しこの地で没しました。

 

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物見台(長瀞小学校)

 

戦国時代に入ると最上氏一族である

長瀞左衛門が在城し長瀞地区一帯を

統治しておりました

 

長瀞左衛門の力は強大で

天童地域を治めていた同族であります

天童氏と同盟関係を結び

北村山一帯まで勢力を伸ばしますが、

1584年、村山地方の統一を目指す

最上義光と天童頼久との間で争いが起こると

天童氏と共に奮戦しましたが

最上義光の策略によって天童氏は滅亡、

長瀞城は手中に収められました。

 

天童氏と最上義光の奮戦を

ご紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

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長源寺

 

天童氏滅亡後、義光の命によって

長瀞城には郡代として

遠山外記が派遣されましたが

延沢氏家臣尾花沢郡代新館十郎と争い

勝利を収めましたが延沢氏によって

滅ぼされたといいます。

 

長瀞城は戦国時代以前は

現在よりも小規模な館だったとされており

義光によって本格的に改修され

現在の規模へと大きく変貌を遂げ、

その後、義光の弟、長瀞義宗や矢桐相模守が

在城したとも伝えられておりますが

義光死後、家臣団の争いにより

1622年、最上家が改易されると

長瀞城は廃城となりました。

 

写真の長源寺の山門は

長瀞城の城門を移築したとも

伝えられております。

 

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長瀞城二の丸堀跡

 

長瀞城廃城後、

鳥居氏、保科氏と統治されておりましたが

1643年、保科氏の転封によって

長瀞地区は幕府領へと組み込まれ、

城跡地に幕府の元締陣屋が設置され、

長い間幕府の直接管轄下に置かれた

長瀞地区でしたが、

1798年、武蔵国久喜藩より

米津通政が入部すると長瀞藩は立藩、

長瀞陣屋が築かれました。

 

長瀞城は堀跡が現在でも

その遺構がしっかりと残されており

見ごたえがあります。

 

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長瀞陣屋跡

 

米津氏は茶や桑等の農業を奨励し

白水川の治水工事や大阪から陶工を呼び寄せ

藩領でありました尾花沢市上ノ畑で

上ノ畑焼きを興する改革が行われ、

二代藩主米津政懿は

庄内藩との間で養子縁組を結び

着実に治世を治めておりましたが、

1869年、五代藩主米津政敏の時代、

長瀞藩は戊辰戦争に

巻き込まれる事となります。

 

新政府軍が庄内藩を取り囲むなか

庄内藩との結び付きが米津政敏と長瀞藩は

庄内藩勢に加勢する事となるのですが

新政府軍側だった天童藩に攻め込まれ

長瀞陣屋を含む、長瀞地区は

戦火に見舞われ陣屋は焼失、

その後、廃藩置県が行われると

長瀞藩は山形県に編入され

その歴史に幕を降ろす事となりました。

 

その後新政府軍に功績が認められ

藩主米津政敏は千葉県大綱白里市に大綱藩、

茨城県龍ヶ崎市に移り龍崎藩の知藩事に採用、

貴族議員まで上り詰め余生を送ります。

 

長瀞城を散策すると

お城の遺構や史跡が多く残されており

見ごたえがありましたので

ぜひ長瀞城の歴史史跡散策を

行ってみてください

 

以上

長瀞城と長瀞藩の歴史と史跡の

ご紹介でした。

 

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北村山地方のお城跡

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