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村山市 楯岡城の歴史と史跡をご紹介!🏯

どーもKABUOです。

 

山形県村山市にありますお城跡、

楯岡城を散策して来ました。

今回、楯岡城の現在の様子と

歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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楯岡城の歴史と史跡をご紹介!🏯

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楯岡城跡

 

別名舞鶴城とも呼ばれる楯岡城。

1208年、前森今嶺によって

標高200m程の楯山の山頂に築城、

 

前森氏は4代に渡り52年間

楯岡周辺を治めましたがその後没落。

1261年、奥州より里見氏が入部、

本城と名前を改めその後5代に渡り

144年間この地を統治しました。

 

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祥雲寺 (楯岡氏菩提寺)

 

しかし本城氏もその後没落、

1406年、村山地方の安定化を図る 

山形城3代目当主最上満直は

四男最上満国を楯岡城に入城させると

満国は名を楯岡満国と改め

祥雲寺や楯岡八幡神社を再建、

楯岡地区の基礎を築く事となります。

 

満国の死後、こちらの祥雲寺に埋葬され

その後歴代楯岡城主の菩提寺となりました。

 

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楯岡城櫓跡

 

楯岡氏はその後宗家最上氏と共に

村山地方の統治に務めましたが

六代目城主楯岡満英の時代、

山形城主最上義光と

天童城主天童頼貞が対立すると

天童氏に与し徹底交戦を行います。

 

当初、天童氏を中心とした国人連合軍、

天童八楯と共に優勢でありましたが

最上義光の調略によって同盟軍が瓦解、

1580年、再び天童城を攻撃を行った際

楯岡満英は討死したと伝わります。

その後1584年、天童城は落城すると

庶家である楯岡満茂が楯岡城を引き継ぎ

最上義光の家臣として手厚く迎え入れました。

 

楯山の山頂にあります楯岡城は現在、

櫓跡や城郭の石垣の一部を残し

史跡は殆んど消失しております。

 

天童氏との合戦の様子を詳しく

記載した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

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楯岡城三の丸堀跡

 

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楯岡馬場の大ケヤキ

 

楯岡満茂はその後、

最上義光と従軍を共にし

横手城主小野寺義道の支城

湯沢城を攻め落とすと城を与えられるなど、

義光の右腕として活躍をします。

 

関ヶ原の合戦後、

秋田県由利郡を与えられた義光は

楯岡満茂に由利郡4万石を分け与えると、

満茂は本荘城に拠点を移し

本城と名を改め領内の安定化を図りました。

 

楯岡地区にあります美倉橋は

楯岡城の三の丸堀跡とされており

楯岡馬場地区はその昔

馬術訓練が行われていた事から

地名の由来となり、

近くにあります楯岡馬場の大ケヤキは

市の天然記念物に登録されております。

 

またその他にも楯岡小学校は

平時の際に使用された館跡地だともされ、

楯岡地区には城下町の史跡が

多く残されておりました。

 

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楯山展望台からの

楯岡地区の風景

 

楯岡満茂が楯岡城を離れてから

中山玄蕃、山野辺義忠、鮭延秀綱が

城番が代わる代わるされる中、

1618年、最上義光の弟光直が楯岡城入部

名を楯岡光直と改めて湯沢沼のを築堤し

切り通しを開削するなど城郭や城下町の

整備が本格的に行われる事となりました。

 

しかし最上義光の死後、

家中は分断され内紛が勃発。

山形藩2代目藩主最上家親の急死により

家親の嫡男である義俊を押す声も上がる一方、

楯岡満直が中心となり義光四男山野辺義忠を

次期当主に推薦を行うなど

後継者争いの発生から家臣団の分裂に

歯止めが効かず悪化の一途を辿る事となります

 

事の重要性を重く受け止めた

幕府はこの問題に対し介入を行うと、

両者の言い分を聞き分け和解案を提示、

義俊を次期当主に据える裁定を行いましたが、

楯岡光直や家臣団の中から不服の声が

相次いで起こり相変わらず藩政が乱れた為、

1622年、最上家は改易を命じられ

光直は豊前の細川家に預けの身となり

楯岡城は廃城、歴史に幕を下ろしました。

 

楯山の展望台からは

楯岡地区の風景が一望出来る

おすすめスポットとなっておりますので

村山市観光に訪れた際は

ぜひ楯岡城にもお越しください。

 

以上、

楯岡城の歴史と史跡のご紹介でした

 

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北村山地方のお城跡

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