どーもKABUOです。
巡る旅に行ってきました
中世の時代、
西村山地方一帯を統治しました
寒河江城主大江氏の痕跡を調べましたので
鎌倉時代から戦国時代までをかけ活躍した
同氏の歴史と史跡を
3回に分けてご紹介します。
今回は大江氏が寒河江に入部し背景や
始祖大江広元やその子親広を中心に
鎌倉時代から末期にかけての
寒河江の様子や歴史をご紹介します。
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寒河江大江氏の歴史と史跡をご紹介!
本楯館跡
西村山地方を治めた中世の武将になります
その来歴ですが源頼朝の側近として活躍した
大江広元を祖としております。
広元は貴族の出身でありましたが
兄中原親能は頼朝と親しい間柄であった為、
1183年、親能は源義経と共に上洛、
広元も動向を共にし鎌倉幕府へと下り
執務を担当します。
1185年、頼朝により
守護・地頭が設置されますが
これは広元の献策されたもので
その後、頼朝に次ぐNO2と呼ばれるほど
鎌倉幕府に置いて重要な働きを行いました。
1189年、奥州藤原氏討伐の恩賞により
置賜郡にありました長井荘の
地頭職を得て領地を拝領すると、
広元は正室の父方であります
多田仁綱を目代として派遣、
本楯に館を築いた後、西川町吉川に居館を移し
寒河江荘一帯を治めます。
寒河江市本楯地区には仁綱が築いた
本楯館跡の石碑が立てられており
遺構は殆ど消失してしまいましたが、
近くにあります満福寺の裏手にあります
本楯河岸跡は江戸時代の頃より
最上川舟運によって運ばれた積荷が運ばれ
寒河江の物流を支えた歴史のある場所で
交通に利便性があった為この地に当初館を築き
寒河江荘を統治しました。
1192年、大江広元は
長男親広に寒河江荘、次男時広に長井荘の
地頭職を相続させ分割統治を行います。
寒河江荘を相続しました親広は
寒河江大江氏の始祖だと位置づけられており
長岡山山頂の観音堂を再興、
朝日修験で栄えました大沼大行院の再建、
領国の安定につとめ
また父が幕府の最高実力者から
しかし1221年、朝廷の復権を狙う
京都守護職を務めておりました親元は
後鳥羽上皇の命により戦いに加担、
父広元と長男佐房が指揮する
幕府軍と戦い敗北、
その後寒河江荘へと逃れ仁綱によって
西川町吉川に匿われた後、
館を築き隠棲しました。
(大江親広・多田仁綱墓所)
朝廷方に加担した親広ですが
幕府方の最高実力者であり
承久の乱の戦いの功労者である
広元と佐房がおりましたので
追手の手は深くは無かったようでしたが、
広元の死後惣領は弟長井時広が
務めるようになります
1225年、広元が没すると父の死を悲しみ、
鎌倉にあった親元の長男佐房に命じて
阿弥陀如来の尊像を彫刻させ
その胎内に広元の遺骨を納入、
阿弥陀堂を建て父の霊を弔い
仁綱はその別当となって安中坊を開きます。
1241年、阿弥陀堂は現在地に移築され
親元の死後この地に埋葬されると
安中坊は大江氏の宗廟として寒河江荘の中で
重要な地位を占めることになりました。
解体される事となりましたが
現在でも親広と仁綱のお墓が残されており
登録されています。
1232年、御成敗式目が制定、
承久の乱の親広の罪が許されると、
1241年、親広から次男高元に
伝領された寒河江荘でありましたが
30歳の若さで早世した為、
1代に限り正室に相続が許され
北寒河江荘は北条氏の所領となり
高元の弟である大江広時が
寒河江荘を相続する事となりました。
時広の時代まで大江氏は
鎌倉に拠点を置き執務を担当する傍ら
統治が行われておりましたが
13世紀末頃に時広の子大江元顕が
寒河江荘に入部したといわれています。
その背景には1285年、
執権北条氏との争い、霜月騒動による
政変によって有力な御家人一族であった
大江氏は失脚を余儀なくされ
領国である寒河江荘に逃れたのでないかと
考えられています。
元顕は火災で消失した慈恩寺の再興にも貢献、
寒河江荘の安定に尽力をつくし、
慈恩寺は大江氏により手厚く信仰され
加護を受けるのでありました。
慈恩寺の歴史と史跡を紹介した
記事はこちらです
以上
寒河江大江氏の歴史と史跡をご紹介!
鎌倉時代編でした。
次回は南北朝の動乱を中心に
戦いを中心にご紹介します。
続きの記事はこちらです
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