どーもKABUOです。
巡る旅に行ってきました
中世の時代、
西村山地方一帯を統治しました
寒河江城主大江氏の痕跡を調べましたので
鎌倉時代から戦国時代までをかけ活躍した
同氏の歴史と史跡をご紹介します。
前回の記事はこちらです
今回は南北朝の動乱後、
置賜の伊達氏と対峙した菖蒲沼合戦、
最上氏と共に長谷堂城で戦った
歴史と史跡をご紹介します
スポンサーリンク
寒河江大江氏の歴史と史跡をご紹介!
寒河江城跡
漆川の合戦後、大江時氏は遺命を守り
この時、時氏は寒河江氏と名乗り
大江氏の中で初めて使用した人物だとされ、
時氏は寒河江城の改修工事を行い
二の丸・三の丸の拡張整備の他に
寒河江川の水を引き用水路を整備、
水田の開発に尽力をつくしました。
伊達氏による置賜郡長井荘の侵攻に対し
寒河江氏と共に近隣諸侯は長井氏を救援し
伊達氏を退却させましたが
1385年、再び伊達氏は長井荘へと侵攻、
長井氏は戦いに敗れ滅亡する事となります。
二ノ堰親水公園
1391年、時氏の死により
父に引き続き寒河江城の整備を行い
1402年、一族左沢氏・最上氏・白鳥氏と共に
反乱を続ける伊達氏の苅田城攻めに
参加したと記録に残されており、
また元時の時代から宗廟でありました
吉川の阿弥陀堂への埋葬が行われなくなり
以後寒河江城を中心に歴代城主が埋葬される
菩提寺が建立されるようなりました
現在時氏が整備した用水路は
二ノ堰親水公園として東屋や歩道が整備され
寒河江市民の憩いの場となっております。
菖蒲沼古戦場跡
その後、元高・高重と寒河江氏を継ぎ
12代寒河江為広の時代、
1479年・1480年と伊達氏は
宗家寒河江氏と支族左沢との間に
不和が生じ協力体制が整わない状態に陥り
これを重く見た一族溝延氏が仲介、
一族団結して戦いが望めるよう
誓詞血判をして宝前に納めます
宗義が再び攻め寄せると
寒河江氏は菖蒲沼までおびき寄せ
そこへ溝延・左沢勢の伏兵が襲いかかって
伊達勢は総崩れとなり宗義は観念し
その場で自害し果てました。
現在菖蒲沼の戦いが行われた場所は
沼らしい形跡は残されておらず
果樹園となっておりますが
その歴史を伝える石碑が立てられています。
長谷堂城趾
菖蒲沼の戦いにおいて一族団結した
寒河江一族でありましたが
1504年、14代寒河江宗広が没すると
正室の子考広はまだ幼少であった為、
一族で後継者争いが発生。
これを好機とみた最上義定は
寒河江領へと3度も侵攻を進め
この戦いで慈恩寺が焼失する程の
被害を受けましたが一族団結しこれを撃退、
最上氏と和睦を結び傘下に収まりました。
傘下に収まった寒河江氏は
その後義定と行動を共し
1514年、伊達稙宗が最上領に侵攻すると
寒河江氏は義定に援軍を出し
長谷堂城で交戦に及ぶも
最上氏の敗北によって一族吉川政周が討死、
翌1515年、一族白岩満教の仲介により
最上氏と伊達氏に和睦が成立し
寒河江氏は伊達氏の勢力化に収まる事となります。
1520年、義定が嗣子のないまま死去すると
家督相続に伊達氏の介入を嫌った
最上一族は反旗を翻し寒河江氏は同調するも
稙宗は破竹の勢いで最上の支城を攻め落とし
寒河江氏も降伏を余儀なくされ和議を結びました
長谷堂城の歴史と史跡を
紹介した記事はこちらです。
土佐壇跡
長者屋敷跡
1527年、
15代寒河江考広が25歳で早世、
仏門に入っておりました兄広重が
還俗し家督を継いだ時代、
1542年、伊達稙宗・晴宗父子による
家督争い天文の乱によ伊達氏は勢力を減衰させ
これにより最上氏は伊達氏から独立し
村山地方の領土拡張を広げる事となります。
1546年、広重の死により嫡男
1560年、最上義守・義光親子により
寒河江領の侵攻を受け撃退しましたが
この戦いの影響により溝延・白岩・左沢氏
支族が独立傾向を強め宗家寒河江氏の
一族に対する統制が弱体する事となりました。
寒河江市の市指定史跡であります
こちらの土佐壇跡
1565年、足利義輝に仕えた蜷川親世が
松永久秀によって主君を殺害されると
寒河江氏支族落衣の館主高松左門を頼りに
落ち延び長者屋敷で数年間暮らす事となり、
1568年、親世が没すると
金谷原土佐林に葬むり
人々は土佐壇と敬い不運の親世を慰めました。
以上
寒河江大江氏の歴史と史跡
室町・安土桃山時代編の
ご紹介でした
次回は戦国時代の様子と
寒河江大江氏の終焉までをご紹介します。
ランキングに参加しています
記事の内容がよろしければ
バナークリックをお願いします
スポンサーリンク