どーもKABUOです。
山形県西村山市河北町の
歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。
今回は河北町溝延にありますお城跡、
溝延城の歴史と史跡をご紹介します。
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溝延城の歴史と史跡をご紹介!🏯
溝延城
溝延城の歴史ですが
足利尊氏と後醍醐天皇が争う南北朝の時代、
南朝廷方に与した大江氏7代当主時茂は
北寒河江荘(現在の河北町一帯)の備えとして
嫡男茂信に寒河江城の支城として
14世紀頃、溝延の地に築城しました。
(北寒河江荘の統治者は不明ですが
恐らくは北朝方の武将であったと思われる。)
現在公園整備化されており
駐車場も完備していますので
気軽に訪れる事ができ
河北町指定史跡に登録されています。
溝延城の場所はこちらです。
本丸跡
堀や土塁で形づくられた輪郭式の平城で
溝が延びるような地形であることから
溝延という地名の由来とされており、
東は最上川、南は寒河江川に囲まれた
天然の要害でありました。
規模は本丸東西77m、南北約36m、
二の丸東西約216m、南北約180m、
三の丸東西約432m、南北約396mと
推測されており、寒河江城と形状が
類似しているのが特徴的です。
公園はそれほど広くはありませんが
溝延城を中心とした地区の様子を写した
お城の縄張りが描かれております
堀跡 (溝延八幡神社)
その後溝茂信は溝延と称し
この地を統治を行いましたが
南朝方を抑えるため山形に入部した
斯波兼頼(最上氏始祖)と対峙します。
1368年、茂信を総大将とする
大江の軍勢は漆川の地で合戦に及びますが
兼頼の巧みな戦術によって大敗北を喫し
茂信含め一族60名余りが自害し果てます
敗戦後、北朝方の室町幕府に降り和解が成立、
寒河江を含む溝延城の所領は安堵され
残された一族によって治められました。
溝延城近くにあります溝延八幡神社には
城の堀跡と思われる史跡が残されています
溝延長老墓碑
戦国時代に入りますと
庄内地方では大宝寺氏の勢力が増し
庄内を結ぶ六十理越街道の重要性から
城主満教を白岩城に配置を行いますと
溝延には叔父尊広の子考満を入れて
城代として安孫子伊代が治め
実権を握る事となります
しかし一族同士の内乱が絶えず
宗家寒河江大江氏は弱体の一途を辿ると、
安孫子伊代の子孫である春時の時代、
1584年、村山地方の統一を目指す
最上義光によって寒河江大江氏が滅亡、
春時は出家し慈恩寺に逃れましたが
後に義光に詮議にあい最上院にて自害、
一族は最上氏に降り溝延城も廃城となり
その歴史に幕を下ろしました。
春時は出家してからは村民から
溝延長老と尊称されておりましたが
自害後溝延地区で異変が起こり
不作と凶作が続くようになります。
村人は春時の呪いと考え
1772年、慰霊の五輪塔を建立、
1879年に再建され
現在のお墓が建立されました。
溝延八幡神社と溝延の大ケヤキ
現在溝延城の史跡は宅地開発によって
殆ど史跡は消失してしまいましたが
地区を歩きますと城郭だった頃の
雰囲気が残されており
城主の祈願所でありました溝延八幡神社や
山形県指定天然記念物に指定されてる
大ケヤキは見ごたえがあります。
河北町に観光に訪れましたら
溝延城の史跡散策に行ってみてください
以上
溝延城の歴史と史跡のご紹介でした。
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