KABUOのぶらり旅日記

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寒河江市 慈恩寺の歴史と史跡をご紹介!卍

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どーもKABUOです。

 

山形県寒河江市の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました

寒河江市の人気観光スポット、

慈恩寺の写真撮影を行いましたので

同寺の歴史や史跡を古代から近代にかけた

その移り変わりをご紹介します。

 

 

 

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慈恩寺の歴史と史跡をご紹介!卍

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慈恩寺山門

 

慈恩寺の歴史ですが社伝によりますと

奈良時代の724年、行基が諸国巡錫のおり

この地を訪れ聖武天皇に上奏します。

746年、その後勅命により

印度婆羅門僧生菩提僊那(ぼだいせんな)

によって開基され、弥勒菩薩を本尊として

寺院を建立したのが始まりとされます。

 

慈恩寺のホームページを確認しますと

この説はあくまでも社伝であり

慈恩寺の歴史が少しずつ明らかになったのは

平安時代後期頃となります。

 

慈恩寺の山門は1736年に築造、

左右両間には金剛力士像が納められており

山形県指定有形文化財に指定されています

 

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慈恩寺本堂

 

平安時代西村山郡一帯は寒河江荘と呼ばれ、

摂関家藤原氏の荘園として成立したのは

1069年以前とされるから

慈恩寺藤原氏の庇護をうけ荘寺的性格の

寺院であったと考えられております。

 

1108年、鳥羽上皇の宣勅によって

奥州藤原基衛が慈恩寺の修営を行いました。

この頃より京都の文化がこの地に流入

慈恩寺にも多大な影響を与え

仁平年間(1,151年〜1153年)に

奈良興行寺の僧願西上人によって

再興諸堂造営を行れました。

 

慈恩寺本堂は長い歴史の間、

度重なる火災もあり幾度も造営され

現在の本堂は1618年に

最上氏によって築造された物で

国指定重要文化財に指定されています

 

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熊野神社

 

鎌倉時代の1185年、

後白河法皇院宣源頼朝の下文を帯びし

高野山から弘俊阿闍梨が正式に来山し

山号を瑞宝山と改め、

それと同時に弘俊は修験を導入

葉山を奥の院とした葉山修験の中心地となり

慈恩寺別当寺にあたりました

 

こちらの熊野神社

後白河法皇の勅願によって勧請、

弘俊阿闍梨によって建立された神社で、

県指定有形文化財に指定されています。

 

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 慈恩寺修験行者跡

 

葉山は羽黒山・月山とともに出羽三山

一山に数えられておりましたが

天文年間(1,532年~1555年)

葉山との関係を断ちこれ以降は

三合山を奥の院と定めました。

 

その後、出羽三山の一山に湯殿山が入り

葉山修験の中心地は寒河江市畑にあります

天台宗大円院へと変わりましたが

この変革期は不明な点が

多くの謎が残されております。

 

現在慈恩寺では

当時の修験道の歴史や体験が学べる

トレッキングツアーが開催されており

参加者を募っておりますので

興味ある方はぜひ参加してみてください。

 

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尾山楯跡(山王台公園)

 

鎌倉以降寒河江荘に入部した

寒河江大江氏の庇護を受けておりましたが

最上家始祖斯波兼頼との戦いに敗れ

徐々に寒河江大江氏の勢力が衰えますと

慈恩寺内の寺社経営は自活を余儀なくされ、

戦国期の1504年、寒河江領に侵攻した

最上義定によって兵火に見舞われ

仏閣、坊舎が焼失してしまう事となり

また争いが絶えず治世の不安な事から

本格的に再建が開始されるのは

江戸時代以降となります。

 

こちらの山王台公園は

中世の城郭跡、尾山楯があった場所で、

慈恩寺を四方に取り囲むように

田沢要害・備前楯・ゴロビツ楯と

楯跡が残されており、中世の動乱の中で

慈恩寺の自衛手段として造られ

一大要塞であったと考えられており、

山王台公園の展望台からは

寒河江市街を見下ろせ景色も良く

寒河江市の隠れた夜景スポットとして

人気があります。

 

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 三重塔

 

1584年、寒河江大江氏の滅亡により 

最上氏の庇護化に置かれる事なり

1600年の関ヶ原の合戦に際し

戦勝祈願を行ったとの記録が残されており

1607年、最上義光によって三重塔が築造、

1618年、山形藩三代目藩主最上義俊の時

本堂の再建が完了する等、

手厚く加護を受けていたことが見てとれます

 

しかしその後1622年

家臣団の内紛により最上家が改易されると

幕府より2812石余りの御朱印を付せられ

祈願寺としてまた鎮護国家

祈祷寺として崇拝されました。

 

こちらの三重塔は義光によって築造され

1823年に一度大火により焼失しましたが

1830年に再び再建される事なり

 山形県指定文化財に指定されています。

 

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 最上院

 

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宝蔵院

 

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華蔵院

 

最上家の改易後、別当坊最上院は

江戸幕府で強い影響力を持つ

天海僧正に取り入って天台宗

改宗しようとしましたが

真言宗宝蔵院・華蔵院は改宗に反対して

長年にわたり抗争を続けましたが

1662年、幕府の裁定によって争いは終結

慈恩寺真言宗天台宗兼学の寺院として

存続する事となりました

 

宝蔵院と華蔵院

慈恩寺の学問を司る学頭を務め、

法力の高い宥日上人や

湯殿山信仰を盛んにした道智上人、

俳句で有名な宥勝などを輩出、

宝蔵院の表門は

県指定有形文化財に登録されています。

 

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八面大荒神

 

全盛期には境内一帯に3ヵ院48坊からなる

東北における真言宗天台宗

中心的な寺院でありましたが

1868年、明治政府の発足、

神仏分離政策が行われると

御朱印の停止や修験道の廃止により

徐々に衰退する事となり生活困窮の為

坊の中から帰農してしまう物も増え

現在は3ヵ院17坊へと減少します。

 

こちらの八面大荒神

慈恩寺の西側を守る結界を意味して

建立された物で、

その他にも東は箕輪の折居権現、

北は白山権現南は八鍬の鹿嶋明神が

建立されておりました。

 

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現在慈恩寺さんでは

5月に開催される伝統舞踊林家舞楽の他に

秋には彼岸花が咲き誇り

多くの観光客が参拝に訪れています

寒河江市に観光のお越しの際は

ぜひ慈恩寺を訪れてみてください

 

以上、

慈恩寺の歴史と史跡のご紹介でした。

 

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