どーもKABUOです。
巡る旅に行ってきました
中世の時代、
西村山地方一帯を統治しました
寒河江城主大江氏の痕跡を調べましたので
鎌倉時代から戦国時代までをかけ活躍した
同氏の歴史と史跡をご紹介します。
前回の記事はこちらです
南北朝時代の動乱をベースに
歴史や史跡をご紹介します。
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寒河江大江氏の歴史と史跡をご紹介!(南北朝時代編)🏯
柴橋楯
1333年、後醍醐天皇と
寒河江大江氏と同族であります
大江貞広と親顕が
貞広の弟懐顕と親顕の子顕広は
大江元顕の跡を付いだ長男5代元政を頼りに
寒河江荘へと落ち延びてきたとされ
鎌倉幕府の滅亡は大江氏とって
大きな政変だった事でしょう。
鎌倉幕府の滅亡後、
武家を軽視したその政策によって
次第に両者の溝が深まる中、
後醍醐天皇へ反旗を翻し
南北朝時代と呼ばれるこの政変に
大江氏も大きく巻き込まれる事となります。
高松楯
1335年、大江元政は南朝方に味方し
奥羽鎮守将軍北畠顕家と共に京へと上り
足利尊氏と戦い京から追い出すことに成功、
1336年、豊島河原合戦において
再び尊氏と戦い勝利を治める活躍を見せます。
1338年、顕家が戦死すると
陸奥介鎮守将軍として下向させ
以後大江氏は南朝方として転戦を繰り返し
1351年、北条氏によって没収された
北寒河江荘の回復を果たしましたが、
劣勢へと追い込まれるのでありました。
こちらの柴橋楯と高松楯は
大江元政の弟柴橋懐広・高松顕広が
築城した歴史を持っており
柴橋氏・高松氏の祖として
宗家大江氏を支えけ続ける事となります。
安国寺
長崎楯(中山城)
1356年、南朝方勢力を抑えるべく
寒河江大江氏と対峙すると
1359年、足利尊氏の命を受け
兼頼によって現在の山辺大寺に
安国寺が建立されます。
表向きには後醍醐天皇の冥福を祈り、
建武の新政をめぐる戦乱で戦没した
将士の霊を弔うために建立されましたが
その裏側では最上領山辺の地は
大江氏家臣長崎楯主中山氏が統治する
現在の中山町と接しており
大江氏に対し牽制する意図を持って
軍事用の寺院城郭を目的に建造されたのでは
ないかとも考えられており、
同年大江元政は斯波兼頼との戦いに敗れ
弟柴橋懐広・高松顕広と共に討死しました`
安国寺と長崎楯の歴史と史跡
おすすめ関連記事はこちらです。
溝延城
左沢楯山城
白岩城(表門跡)
新田城跡
高屋楯跡
大江元政の討死にともない、
その子大江時茂が跡を継ぐと
長男溝延茂信を溝延に次男元時を左沢へ、
茂信の子政広を白岩へと
一族を要所へ配置し城を築城、
また小泉・高屋・萩袋・見附にも楯を築き
防備を固める方策を取りました。
溝延城・左沢楯山城・白岩城の
歴史と史跡を紹介した記事はこちらです
漆川古戦場跡
大江時茂・斯波兼頼両者緊張が高まるなか
1368年、室町幕府2代将軍
足利義詮の死去により
南朝方武将に書状を廻し挙兵する事となります。
1369年、大江時茂もこれに呼応し
溝延茂信を総大将として
大江一族の諸将が多くが戦いに参加、
斯波兼頼・大崎直持との漆川の戦いにおいて
攻防戦が繰り広げられると
斯波軍は五百川溪谷の諸楯を落とした後、
富沢口から攻めよせるとみせかけ
別働隊を漆川上流から大江軍の背後を付く
奇襲作戦が功を奏し大江軍は萩袋楯に撤退、
敗北を悟った茂信・左沢元時を含む
一族60余人が自害し果てる大敗北を喫します。
漆川戦殉難者供養碑(長泉寺)
1374年、漆川の戦いから5年後、
遺命を残し生涯を閉じると
病のため漆川の戦いは参加が出来なかった
4男大江時氏が跡を引き継ぎ
嫡男元時を人質として幕府の元に送り和睦、
終結する事となりました。
萩袋楯がありました長泉寺には
漆川の戦いで敗れた大江一族の
供養塔が建立されております。
以上
寒河江大江氏の歴史と史跡
南北朝動乱の時代編の
ご紹介でした
次回は室町〜安土桃山時代をベースに
置賜の伊達氏と対峙した菖蒲沼の合戦や
最上氏と共に戦った長谷堂城の戦いの
歴史と史跡をご紹介します。
続きの記事はこちらです
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