KABUOのぶらり旅日記

どーもKABUOです。 地元山形を中心に各地のグルメ・温泉サウナ・歴史史跡巡りや観光スポットを訪れブログでご紹介しています。

寒河江大江氏の歴史と史跡をご紹介!(南北朝動乱の時代編)🏯

スポンサーリンク

どーもKABUOです。

 

山形県寒河江市の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました

 

中世の時代、

山形県寒河江市から

西村山地方一帯を統治しました

寒河江城主大江氏の痕跡を調べましたので

鎌倉時代から戦国時代までをかけ活躍した

同氏の歴史と史跡をご紹介します。

 

前回の記事はこちらです 

www.yamagatakabuo.online

 

今回足利尊氏後醍醐天皇が争った

南北朝時代の動乱をベースに

村山地方における寒河江大江氏の動向や

歴史や史跡をご紹介します。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

寒河江大江氏の歴史と史跡をご紹介!(南北朝時代編)🏯

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20201017223431j:plain

 

柴橋楯

  

1333年、後醍醐天皇

新田義貞足利尊氏により元弘の乱において

寒河江大江氏と同族であります

大江貞広と親顕が

北条高時に殉じ討死、鎌倉幕府は滅亡します。

貞広の弟懐顕と親顕の子顕広は

大江元顕の跡を付いだ長男5代元政を頼りに

寒河江荘へと落ち延びてきたとされ

鎌倉幕府の滅亡は大江氏とって

大きな政変だった事でしょう。

 

鎌倉幕府の滅亡後、

後醍醐天皇によって建武の新政が行われるが

武家を軽視したその政策によって

次第に両者の溝が深まる中、

鎌倉幕府討伐の功労者である足利尊氏

後醍醐天皇へ反旗を翻し

後に北朝廷と南朝廷と分かれ争う

南北朝時代と呼ばれるこの政変に

大江氏も大きく巻き込まれる事となります。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20201017223743j:plain

 

高松楯

 

1335年、大江元政は南朝方に味方し

奥羽鎮守将軍北畠顕家と共に京へと上り

足利尊氏と戦い京から追い出すことに成功、

1336年、豊島河原合戦において

再び尊氏と戦い勝利を治める活躍を見せます。

 

1338年、顕家が戦死すると

南朝方は顕家の弟北畠顕信

陸奥介鎮守将軍として下向させ

以後大江氏は南朝方として転戦を繰り返し

1351年、北条氏によって没収された

寒河江荘の回復を果たしましたが、

顕信は北朝方との争いに敗れ国府を追われると

北朝方の勢力は勢いを増し次第に南朝方は

劣勢へと追い込まれるのでありました。

 

こちらの柴橋楯と高松楯は

大江元政の弟柴橋懐広・高松顕広が

築城した歴史を持っており

柴橋氏・高松氏の祖として

宗家大江氏を支えけ続ける事となります。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200707183957j:plain

 

安国寺

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200711214711j:plain

 

長崎楯(中山城)

 

1356年、南朝方勢力を抑えるべく

北朝方の武将斯波兼頼が山形に入部し

寒河江大江氏と対峙すると

1359年、足利尊氏の命を受け

兼頼によって現在の山辺大寺に

安国寺が建立されます。

 

表向きには後醍醐天皇の冥福を祈り、

建武の新政をめぐる戦乱で戦没した

将士の霊を弔うために建立されましたが

その裏側では最上領山辺の地は

大江氏家臣長崎楯主中山氏が統治する

現在の中山町と接しており

村山地方において南朝方最大勢力であった

大江氏に対し牽制する意図を持って

軍事用の寺院城郭を目的に建造されたのでは

ないかとも考えられており、

同年大江元政は斯波兼頼との戦いに敗れ

弟柴橋懐広・高松顕広と共に討死しました`

 

安国寺と長崎楯の歴史と史跡

おすすめ関連記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20201017221728j:plain

 

溝延城

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200923230802j:plain

 

左沢楯山城

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20201003170139j:plain

 

 白岩城(表門跡)

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20201024000204j:plain

 

新田城跡

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20201024000257j:plain

 

高屋楯跡

 

大江元政の討死にともない、

その子大江時茂が跡を継ぐと

宿敵斯波兼頼北朝軍の争乱に備え

長男溝延茂信を溝延に次男元時を左沢へ、

茂信の子政広を白岩へと

一族を要所へ配置し城を築城、

また小泉・高屋・萩袋・見附にも楯を築き

防備を固める方策を取りました。

 

溝延城・左沢楯山城・白岩城の

歴史と史跡を紹介した記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

www.yamagatakabuo.online

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200910203158j:plain

  

漆川古戦場跡

 

大江時茂・斯波兼頼両者緊張が高まるなか

1368年、室町幕府2代将軍

足利義詮の死去により

新田義宗脇屋義治南朝方はこれを契機と捉え

南朝方武将に書状を廻し挙兵する事となります。

 

1369年、大江時茂もこれに呼応し

溝延茂信を総大将として

大江一族の諸将が多くが戦いに参加、

斯波兼頼・大崎直持との漆川の戦いにおいて

攻防戦が繰り広げられると

斯波軍は五百川溪谷の諸楯を落とした後、

富沢口から攻めよせるとみせかけ

別働隊を漆川上流から大江軍の背後を付く

奇襲作戦が功を奏し大江軍は萩袋楯に撤退、

敗北を悟った茂信・左沢元時を含む

一族60余人が自害し果てる大敗北を喫します。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20200910205822j:plain


漆川戦殉難者供養碑(長泉寺)

 

1374年、漆川の戦いから5年後、

時茂は北朝室町幕府に和を乞い降るよう

遺命を残し生涯を閉じると

病のため漆川の戦いは参加が出来なかった

4男大江時氏が跡を引き継ぎ

嫡男元時を人質として幕府の元に送り和睦、

村山地方における南北朝の争いが

終結する事となりました。

 

山形県大江町には漆川古戦場碑と

萩袋楯がありました長泉寺には

漆川の戦いで敗れた大江一族の

供養塔が建立されております。

 

以上

寒河江大江氏の歴史と史跡

南北朝動乱の時代編の

ご紹介でした

 

次回は室町〜安土桃山時代をベースに

置賜の伊達氏と対峙した菖蒲沼の合戦や

最上氏と共に戦った長谷堂城の戦いの

歴史と史跡をご紹介します。

 

続きの記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

 

スポンサーリンク

 

スポンサーリンク