KABUOのぶらり旅日記

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寒河江大江氏の歴史と史跡をご紹介!(戦国時代と大江氏終焉編)🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県寒河江市の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました

 

中世の時代、

山形県寒河江市から

西村山地方一帯を統治しました

寒河江城主大江氏の痕跡を調べましたので

鎌倉時代から戦国時代までをかけ活躍した

同氏の歴史と史跡をご紹介します。

 

前回の記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

今回は最上義光と争った戦国時代を中心に

寒河江大江氏の終焉までをご紹介します。

 

 

 

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寒河江大江氏の歴史と史跡をご紹介!(戦国時代と大江氏終焉編)🏯

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寒河江城本丸跡

 

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寒河江城二の丸堀跡

 

1574年、最上義守・義光父子による

家督争い天正最上の乱では、

寒河江為広は義光方に味方するに対し

支族白岩・溝延・左沢氏は

義守方に味方するという分裂状態へと陥り、

為広が籠城する寒河江城を寒河江氏一族を含む

白鳥氏・天童氏・蔵増氏・野辺沢氏等が攻め、

二の丸・三の丸は埋め立てられ

本丸を残し破壊されてしまいます。

 

劣勢でありました義光でしたが

巧みな戦術や政治手腕により一気に盛り返し

最上家の家督争いを制すると

敵対した勢力を次々と撃破し

村山地方で勢力を拡大させました。

 

そんなか寒河江為広と最上義光との間に

義光の嫡男最上義康を為広の娘婿とする

密約が交わされる事なります。

しかし為広の末弟柴橋頼綱(橋間勘十郎)と

家臣団はこれを反故し一族の吉川氏より

高基を婿として迎え入れる事を決断すると

これは最上家のみならず

一族の左沢氏・溝延氏の反発を招き

この確執の結果、

寒河江氏の歯車は狂い出す事となります。

 

天正最上の乱の歴史や史跡を

紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

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谷地城本丸跡(三社宮)

 

1574年〜1584年にかけ

最上義光は領地の拡大を広げ

一族である天童氏の滅亡、

最上地方の鮭延氏の降伏させるなか

1583年、庄内地方を統治した

大宝寺義氏の攻略に手をかけます。

寒河江高基と大宝寺氏は縁戚関係もあり

六十里越街道を通り救援に向かいましたが

義氏は自害し大宝寺氏は滅亡。

 

1584年、義光は病と偽り

縁戚関係でありました谷地城主白鳥長久を

山形城へと呼び寄せ暗殺に成功させると

3000の兵を引き連れ谷地城を攻め込むと

柴橋頼綱は救援に向かうものの

谷地城は数日で陥落したのでありました

 

谷地城の歴史と史跡を

紹介した記事はこちらです。

www.yamagatakabuo.online

 

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橋間勘十郎慰霊碑

 

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 橋間勘十郎塚跡

 

谷地城の陥落後、最上義光は間髪を入れず

寒河江城攻撃の態勢を整え攻め込みますと、

寒河江高基の重臣柴橋頼綱(橋間勘十郎)は

高瀬山に前線基地を築きあげ

旧白鳥氏家臣を集め迎い撃ちましたが、

義光は策略を練り偽りの退却でおびき寄せ

伏兵の鉄砲隊で頼綱に狙撃を行い重症、

頼綱は懸命に退却を試みましたが

傷口は深く討死しました。

 

現在高瀬山にあります小森神社には

柴橋頼綱の慰霊碑が建立されており

頼綱が落命したとされる場所の近くには

橋間勘十郎塚碑が残されており

またこの戦いによって

柴橋・高松・高屋・新田氏と

多くの一族が討死する事となりました。

 

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光学院(寒河江高基菩提寺)

 

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大江氏十二家臣之墓所

 

柴橋頼綱の討死により

寒河江高基は家臣12名と共に

貫見楯に逃れたものの命運付きたと悟り

腹心3名を引き連れ御館山に登り自害、

弟 ・家臣12名も貫見楯で自害し

西村山地方を400年にも渡り統治した

寒河江大江氏は滅亡しました

 

大江町貫見にあります光学院は

寒河江高基の菩提寺となっており

遺品の脇差が現存する他、

御館山の山頂には江戸時代、

柴橋代官林伊太郎によって建立された

高基と3家臣の墓碑と

麓の近くには自害し果てた家臣12名の

お墓が建立されています。

 

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光禅寺

 

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寒河江広俊墓所(寒河江備前守)

 

最上義光との戦いの後、

左沢氏・白岩氏・溝延氏等生き残った

多くの寒河江一族は義光に服従を誓い

一族である寒河江良光や寒河江広俊は

大江氏菩提寺阿弥陀堂の再建、

徳川家康の使者、仙北一揆の鎮圧

由利十二頭の平定などにより活躍。

1622年、最上家が改易されると

多くの一族は各地の大名に士官し

幕末を迎えました。

 

こちらの光禅寺は

最上義光菩提寺で義光の死後、

4名の家臣団が殉死しており

その中の1人が寒河江広俊でした。

宗家が滅びましたものの義光の元で働き

寒河江城27000石を任される程

信頼の厚かった人物だった事が伺えます。

 

光禅寺の歴史と史跡を紹介した

記事はこちらです

www.yamagatakabuo.online

 

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長岡観音(長念寺)

 

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寒河江城主歴代の墓標

  

その後1636年、

寒河江城は廃城となり二の丸跡に

寒河江代官所が設置され

寒河江一帯は幕府領として統治されると、

1867年、長岡山に寒河江・柴橋代官所

統合しました長岡代官所が建設することになり

大江親広が再建しました長岡観音が

親広の菩提寺長念寺に移されました。

 

大正期、この地方に大きな足跡を残した

寒河江大江氏の歴史が忘れ去られているとして

大老和田九右衛門の子孫あたる和田市雄により

長念寺境内に寒河江大江氏歴代城主と

家老柴橋頼綱の墓標が建てられ、

また大江氏関連の寺院にもそれぞれの

墓標が建立されました。

 

現在寒河江市・西村山地方では

鎌倉・南北朝・室町・戦国時代と

400年に渡り西村山の基礎を築いた

寒河江大江氏の史跡が数多く残されており

中世の歴史を深く触れる事が出来ますので

西村山地方に観光のお越しの際は

ぜひ寒河江大江氏の歴史と史跡巡りを

行ってみてください。

 

以上

寒河江大江氏の歴史と史跡をご紹介でした。

 

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寒河江大江氏関連の史跡の

アクセス場所はこちらです。

 

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