どーもKABUOです。
歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。
今回は山形の物流と経済支えた
最上川舟運の寄港地、
ブラリ旅してきましたのでご紹介します。
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たまに行くならこんな港町、山形県大石田町をブラリ旅
角二山遺跡を代表するように縄文時代から
最上川流域沿いに集落が形成、
街道・水路が整備された歴史を持ちます。
中世には永正年間(1504- 1521)
大田佐仲によって井出楯が築かれ、
大田佐仲氏の時代に建立され
現在の大石田町中心街の基礎を築きました。
その後佐仲の息子大田外記が家督を継ぎましたが
あまり評判が良い人物とは言えず、
1585年、最上義光に攻め滅ぼされた説や、
最上氏家臣に取り立てられ
義光四男山野辺義忠の家老ともなったとの
記録が残されているそうです。
最上川舟運が始まったのが古代の時代、
当時は舟を使った簡単な運搬でしたが
碁点・隼・三ヶ瀬の河川工事が行われ
庄内地方を掌握した頃から整備が進められ
最上川舟運の基礎を築き上げます。
当時最上川舟運の寄港地で
最も栄えていたのが清水河岸でした。
清水河岸の統治を行ってた
最上義光の三男清水城主清水義親は
豊臣秀頼の小姓を努めた経緯から
大阪冬の陣が始まる前豊臣方への内通が疑われ
攻め滅ぼされてしまい清水河岸が衰退すると
拠点を大石田河岸に設け栄える事となりました。
1622年、最上家の改易に伴い、
鳥居氏・保科氏と藩主が変わり
その後幕府領へと編入され以後幕末まで
幕府直轄領地として統治されました。
その後最上川の整備が各藩で行われ
また河村瑞賢によって日本海西回り航路が確立し
最上川で荷積みされた幕府領年貢米が
酒田港を通り江戸に流通される事となります。
1792年に幕府の川船役所が設けられ
荷積みや人々の往来を監視管理を行いました。
また著名な人物も多く大石田を訪れており、
山寺を訪れた後大石田に三日滞在した記録や
病気療養を行いながら作品を多く残しました。
町内を歩きますと芭蕉が訪れた記念碑や
史跡が残されておりとても見応えがあります。
現在でも古き町並みが残る大石田町の
港町として栄えた歴史や史跡を触れに
ぜひ観光に訪れてみてください
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