どーもKABUOです。
2019年9月
山形県最上地方大蔵村の
歴史と史跡調査を行いました。
庄内藩や秋田本荘藩の参勤交代、
最上川舟運や出羽三山へ向かう
宿場町として栄えた歴史等を
ご紹介出来たらと思います。
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大蔵村の歴史と史跡をご紹介!
大蔵村役場
明治22年、
合海町・赤松・清水町・南山の
4か村が合併したのが
大蔵村になります。
大蔵村の地名の由来は
戦国時代、この地を統治した
最上義光の三男、清水義親が
大蔵大輔(おおくらだいふ)と
名のっていたことから
大蔵村という地名の由来となりました。
白須賀遺跡
古代の時代、
同町にあります白須賀遺跡からは
縄文土器が発見されるなど
最上川の豊かな土壌を背景に
集落が形成されていた
形跡が残されております。
清水城 大手門跡
中世になりますと
1476年山形最上氏によって
庶族であります成沢満久を
この大蔵村清水の地に遣わし
名を清水氏と改めて
清水城を築城し統治を始めます。
戦国時代に入りますと
清水氏は嫡男に恵まれず
宗家であります最上義光から
三男、義親が養子に入り、
清水義親と名を改め清水城を中心に
城下町の整備を進めましたが、
1614年
豊臣方に通じたと疑惑を持たれてしまい
山形城主で腹違いの兄、
最上家親に奇襲され義親は自害、
清水城は廃城となりました。
清水氏が滅亡後、新庄を拠点にする
最上家臣、日野将監の
管理下に置かれますが
1622年
最上家の改易されると
戸沢氏が入部し新庄藩を立藩し
幕末まで統治される事となりました。
清水氏と清水城の歴史と史跡は
こちらの記事で詳しくご紹介しています
光明寺跡
大蔵村にあります光明寺跡
清水氏の息女で最上義光の側室になった
清水御前が開基されたお寺で
清水御前は19才で山形城に迎えられ
義光が亡くなるまで敬愛され、
義光が亡くなった後、
故郷清水に戻り尼となり
光明寺で生涯を閉じました。
清水河岸
中世の時代から
大蔵村にあります最上川は
日本海と最上川を通り
村山地方を結ぶ物流の拠点として
重要な戦略的な地域でありました
江戸時代に入りますと
舟運の中心地が大石田に移されますが
最盛期程ではありませんが
北前船から最上川舟運で運ばれる
新庄藩の重要物流拠点として栄えます
清水町村本陣跡
また内陸地方とと庄内地方をを結ぶ
交通の要所だった歴史を持っており
庄内藩の参勤交代での使用や
舟形街道を通り出羽三山へ向かう
行者や参拝客の宿場町として栄え、
奥の細道で有名な松尾芭蕉も
上流の本合海から乗船し湯殿山へと
向かったと記録されております。
写真の清水村本陣跡は
参勤交代で訪れた藩主が
宿泊や休息が行われた場所で
大蔵村清水では古い宿場町の
雰囲気が残されておりました。
永松銅山 大蔵鉱山
明治期になりますと
肘折温泉近くにあります
永松銅山、大蔵鉱山の
大規模な採掘が始まり
最盛期には従業員1200人
産銅年800tを越えましたが
第二次世界大戦後に
エネルギー転換により衰退し
閉山となりました。
肘折温泉
現在大蔵村ではお蕎麦トマトの
栽培が盛んに行われており
観光スポット肘肘折温泉は湯治場として
多くの観光客が訪れております。
自然豊かで歴史や史跡が豊富に残る
大蔵村にぜひ訪れてください
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