どーもKABUOです。
旅に行ってきました。
今回は中世戦国時代の館跡で
豊島館の歴史と史跡をご紹介します。
豊島館の歴史と史跡をご紹介!🏯。
秋田市河辺戸島にあります豊島館跡。
別名豊島城とも呼ばれており
館南側には岩見川が流れており、
要害天険の地に造られ
主郭は標高85 m比高78mの高さがあり
主郭・帯郭・腰郭・竪堀・堀切
土橋など多くの貴重な遺構を残す
山麓の末端を利用した中世の山城です。
豊島館までは案内板が設置され
駐車スペースも河原沿いにありましたが
道沿いは農道となって道幅は狭いので
バイクや徒歩での散策をおすすめします。
その歴史ですが
築城年代は不明となっており
桑木城として築いのが始まりとされ、
その後湊安東氏勢力によって
黒川肥後守は戦いに破れ滅亡。
その後1506年、源頼朝の武将で
豊島館に居城したと伝えられています。
この事から畠山重村と湊安東氏の間で
なにかしら交流があったと考えられ、
湊安東氏によって客将として迎い入れ
在城したのでないかと思います。
写真の場所が入り口付近となっており
案内板が設置されていました
畠山重村は名を豊島と改め
角館城戸沢氏・横手城小野寺氏と
南方に対する近隣勢力を抑える役割と
雄物川の交易をまとめる役割をにない
周辺地域の統治を行い
豊島氏の領有する土地を
豊島郡とも呼ばれるようになります
頼りにしていた湊安東氏ですが、
同族である檜山安東氏によって
実権を奪われてしまうと、
雄物川の交易を巡り両者対立。
小野寺氏・戸沢氏と手を結び
湊安藤氏側の数々の支城に
攻撃を行い反旗を翻しましたが、
檜山安藤氏によって鎮圧され
豊島氏は婚姻関係のあった
仁賀保氏の元へ逃げ落ち延びました
道中は山道となっており
道は整備されていますが
しっかりとした靴を履いて
散策する事をおすすめします。
1579年、豊島氏は帰参を許され
豊島館へと復帰しましたが、
1587年、檜山安東氏の有力者である
安東愛季の死去を契機に
湊安東氏当主通季は好機と捉え
檜山安東氏に反旗を翻します。
豊島氏は湊安東氏に同調し
檜山安東氏が籠城する
檜山城の攻略に参加しましたが、
守りは固く攻めあぐねる最中、
檜山安東氏と同盟を結ぶ
由利十二頭勢の反撃にあい
撤退を余儀なくされると、
赤尾津氏・羽川氏の
攻撃によって豊島館は落城、
当主重氏は討死しました。
こちらの前御殿跡からは
岩見川と戸島地区が見える
絶景スポットとなっています。
この戦いによって豊島館は
檜山安東氏方の羽川新助が
恩賞により入城を果たし
名を豊島新助と名乗り統治しましたが
赤尾津氏の策略によって羽川氏は没落、
関ヶ原の合戦後に国替えが行われた際
佐竹氏によって廃却される事となり
その歴史に幕を下ろす事となりました。
こちらが豊島館の主郭跡。
帯郭も多数残されており
よく整備されているので散策しやすく
とても見応えがある館跡でした。
戸島地区は豊島氏時代は城下町、
江戸時代には宿場町栄えた歴史があり
豊島氏の菩提寺満蔵寺が残されており
豊島館と共に散策を行ってみてください
以上豊島館の歴史と史跡のご紹介でした。
こちらが館の場所です。
秋田市の城郭
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