どーもKABUOです。
旅に行ってきました。
籠城が行われた
金沢柵跡の歴史と史跡をご紹介します。
金沢柵(金沢城)の歴史と史跡をご紹介!🏯
金沢柵跡(金沢公園)
横手市金沢中野金洗沢にあります金沢柵跡。
平安時代後期1083-1089年に行われた
後三年の役の古戦場跡地として知られ、
標高150m程で周辺を厨川が流れる
天然の要害と呼ぶに相応しいお城跡です。
後三年の役とは
清原武衡・家衡・清衡による
出和国を中心に勢力を広げた
豪族清原一族の内紛が発端として始まり、
武衡有利で戦いが行われたが当然の病死。
義家の裁定により家衡・清衡に
領土を2分割にして分け与えられましたが、
家衡はこれに不満を持ち清衡を強襲、
これを避け無事に落ち延びた清衡は
義家の助力を得て
家衡の討伐が行われました。
景正巧名塚
納豆発祥の地碑
家衡は当初沼の柵で籠城を行い
義家・清衡連合軍と対峙する中、
より強固で堅固な金沢柵での
籠城の助言を受け金沢柵へと拠点を移すと
連合軍は更に苦戦を
仕入れられる事となります。
しかし義家の弟である源義光の加勢、
更に清原一族の吉彦秀武の寝返りにより
秀武より兵糧攻めの提案を受け入れ
連合軍は態勢を整え持久戦に持ち込むと
家衡軍とともに金沢柵は落城、
戦いに勝利した清衡は藤原と名を改め
奥州藤原氏の礎を築きあげたのでした。
こちらの景正巧名塚は
後三年の役で手柄をたてた鎌倉景正によって
敵の屍をこの地に手厚く葬り供養を行い
その上に杉を植えたと伝えられている
巨木跡になります。
また納豆の発祥の地と知られており、
義家軍の兵糧として用意され
藁に包まれて保存された煮豆が
馬の背中の体温によって発酵が促進され
煮豆が納豆菌で糸を引いて生まれたのが
納豆の始まりと伝えられています。
金沢城本丸跡
金沢城縄張り図
奥州藤原氏の時代を経て
中世戦国時代に差し掛かりますと、
南部氏が秋田県南部へと侵攻を進めると
南部氏家臣の南部家光・家信が
この地に入城したと記録に残されており、
また沼舘城主小野寺秦道が
南部氏を秋田南部から撤退させると
秦道の息子である道秀が入城します。
この事から中世の時代に差し掛かると
金沢柵跡地を利用して
南部氏・小野寺氏により
戦国の城郭へと改良が行われたと考えられ
金沢城と呼ばれるようになりました。
縄張り図を見ますと本丸・北の丸・二の丸
西の丸で構成されており、
周囲には堀切り跡に土塁が
現在でもしっかりと残されているので
とても見応えがありました。
また公園中央には駐車場もありますので
気軽に散策が可能となっています。
金澤八幡宮
鬼杉と鬼八幡神社
戦国時代中期には金沢八幡宮の衆徒である
金乗坊が横手光盛と共に
主家である小野寺稙道を
敗死に追い込んだとの記録が残されており、
また戦国期後期には
六郷城主六郷政乗の弟金沢権太郎が
金沢城主となった記録が残されています。
そして関ヶ原の合戦後、
居城の候補として金沢城が挙げられましたが
最終的には久保田城の築城が決定が下され、
1620年、一国一城令によって
廃城となりました
神霊を勧請して建立されます。
久保田藩主佐竹氏は
源義光の末裔である事から
藩主の信仰も厚く
数度の修改築が行われました。
また金澤八幡宮参道沿いにあります
兜杉は義家が凱旋のとき
愛用の兜を埋めて石をその上に置き、
そばに清原清衡が植えた杉と伝えられ、
鬼八幡神社には義家・義光兄弟が
祀られています。
後三年合戦金沢資料館
平安の風わたる公園
金沢柵(金沢城)付近にも
後三年の役に纏わる歴史資料館や
義家が家衡の伏兵を見破った
雁行の乱れの逸話が残る
平安の風わたる公園等見応えが満載です。
金沢柵(金沢城)にぜひ足を運んでみてください
こちらが史跡の場所です。
横手市の城郭跡
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