どーもKABUOです。
旅に行ってきました。
今回は横手城の支城として築城された
秋田県指定史跡にも登録されてる
中世の城郭跡、
吉田城の歴史と史跡をご紹介します。
吉田城の歴史と史跡をご紹介!🏯
吉田城東側土塁跡
大戸川
吉田城跡。
横手盆地の南部に位置する
平鹿平野の真ん中に位置しており、
東に横手城、西に大森城
沼舘城が築城され、
東西約120m・南北約100m程の規模を持ち、
高さ3mの土塁がめぐらされており、
西には大戸川、東には新堰が流れ
外堀の役割が果たされたと
考えられています。
吉田城北側(三吉神社)
秋田の自由民権発祥の地碑
その歴史は雄勝郡・平賀郡に勢力を広げた
小野寺輝道が家督を義道に譲り
隠居城として築城したのが
始まりとされます。
輝道は末子の孫一(後の陳道)を連れて居城、
その後陳道が吉田城を継承すると、
現美郷町飯詰より吉祥山西法寺を
城下に移建した事から
村民は吉田城を西法寺館とも称され、
輝道の墓碑が建立されているそうです。
吉田城北側にあります
こちらの秋田の自由民権発祥の地碑は
吉田出身の柴田浅五郎が主導者となり、
秋田県南地域で活動されていた事を記念し
建立された石碑です。
吉田城南側土塁跡
吉田城主郭跡
陳道は兄義道と共に協力を行い
領地の経営にあたりましたが、
1600年、関ヶ原の合戦では
義道は西軍上杉方に与した事から
戦後最上軍・秋田国人連合衆の侵攻を受け、
最上軍は大森城に
攻め込みましたが守りが固く、
平城で攻めやすい
吉田城に兵を進めましたが、
陳道は敵の行動を素早く察知し援軍を求め
落城を免れたと考えられます
吉祥山西法寺
その後徳川家康の仲介により
両者の和睦が結ばれましたが、
義道は石見国津和野に改易処分されると
秋田に入部し久保田藩を立藩。
家臣茂木監物治良が吉田城に配され
地域の統治を行いましたが
1615年、一国一城令によって
廃城となりました。
今回吉田城周辺を散策しましたが、
残された土塁が特に見応えがあり、
各重要な支城の中央に位置している事から
周辺地域の政策や領地経営に影響を及ぼし、
影の裏番的な城という
イメージが浮かび上がりました。
秋田県指定史跡に登録されてるだけあって
遺構がしっかりと残されていますので、
横手市にお越しの際は
ぜひ吉田城に立ち寄ってみてください。
こちらが史跡の場所です。
横手市の城郭
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