どーもKABUOです。
旅に行って来ました。
中世の城跡増田城の歴史と史跡を
ご紹介します。
増田城(土肥館)の歴史と史跡をご紹介!🏯
増田城(増田小学校)
別名土肥館・土肥城とも呼ばれ、
貞治年間(1362-67)に
小笠原義冬が当地に築城したと言われ、
その時義冬が城の堅固を祈って
愛娘を生け贄にしたという
悲話(二本杉伝説)が残されています。
二本杉
貞治碑
小笠原氏の一族であるが、
南部氏を頼って陸奥に下向した。
稲庭に本拠を構えていた
小野寺氏に圧迫され増田城へと移りました。
増田小学校北西にあります
二本杉には増田城主小笠原氏が
愛娘と牛を人柱にしたといわれている
二本杉が残されており、
板碑も同時に残されていました。
増田城縄張り図
増田城土塁跡
その後小笠原氏は
小野寺氏との抗争に再び破れ
楢岡(大仙市)に移り
小野寺家家臣の土肥氏が入城。
土肥氏は関ヶ原の戦いまで
城主として居城を続け、
合戦後の1603年には
佐竹氏の秋田国替えにともなって、
佐竹義賢(佐竹東家)が
一時城代となりました。
増田月山神社
城の主郭は東西200・南北300mの方形で
水壕をめぐらせた平城でした。
南側の堀は幅十メートル、
他の三方は6 メートルで、
二本杉付近に当時の
土塁の面影を残しています。
また主郭は周囲よりも一段高く、
外堀や隅櫓もうかがわれ、
防御施設を整えた城であったようです。
こちらの増田月山神社は
小笠原氏によって創建されたと伝えられ、
増田の総鎮守として小笠原氏はじめ、
土肥氏や村人達の厚い信仰を集めました。
満福寺
増田城の壊された年代は不明ですが、
豊臣秀吉の廃城命令でも破却をまぬがれ、
廃城となるまでしばらく存続したと
考えられており、
戦国時代から江戸時代初期まで
平鹿・雄勝地区で
重要な役割を果たしました。
こちらの満福寺は
土肥氏の菩提寺として創建され、
境内にあります阿弥陀如来立像は
増田小学校と横手市役所増田支所にまたがり
増田城の敷地が存在していたと考えられ
土塁や遺構がはっきりと残されており
とても見ごたえがありました!。
ぜひ横手市にお越しの際は
増田城の散策を行ってみてください。
こちらが増田城の場所です。
横手市の城郭
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