どーもKABUOです
由利地方の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました。
今回は中世から戦国時代までをかけ
この地域を治めた国人衆、
由利十二頭の関する
歴史と史跡をブログにまとめました。
前回由利五人衆をご紹介した
記事はこちらです。
今回はの中で巨大な勢力を誇った矢島氏や、
潟保氏・鮎川氏・子吉氏・石沢氏・下村氏
玉米氏・羽川氏についての
歴史をご紹介してますのでぜひご覧ください。
由利十二頭の歴史と史跡をご紹介!(矢島氏・その他国人衆編)🏯
根城館(八幡神社)
高建寺
由利本荘市矢島地区を
本拠地とした矢島氏
先祖は仁賀保氏と同じく
小笠原氏流の大井氏を祖としており、
仁賀保氏同様由利十二頭の中で
最大勢力を誇り中心的な一族でした。
その為戦国時代に入りますと
由利地方を巡り仁賀保氏と
30年にも渡る抗争を繰り広げ、
当主矢島満安の時代には
仁賀保氏当主を四代に渡り討伐する等
目覚ましい活躍を見せましたが、
しかしその後、
山形城主最上義光に与した
仁賀保氏ら由利衆の策略にはまり
滅亡に追い込まれる事となりました
現在矢島地区には
矢島氏の居城根城跡地や新荘館、
菩提寺高建寺の他、
遺児鶴姫の墓標等多くの史跡が残されています。
矢島氏についての歴史と史跡を
詳しく記載した記事はこちらです
孔雀館(孔雀館公園)
宗老寺
由利本荘市西目潟保を
本拠地とした潟保氏
潟保氏の出自は他の由利十二頭と違い、
当地の豪族斎藤氏を祖としており、
1217年の記録による
居館を潟保館と改称したとの
記録が残されている事から
斎藤氏はそれ以前から
この地域に土着していたと考えれます。
1467年、信濃国より海野弥太郎という
人物が由利郡に入部、
斎藤氏との間で軋轢が生じ、
弥太郎が斎藤氏の養子になる事で
両者は和解に至り
潟保氏を名乗るようになります。
戦国時代には隣接する仁賀保氏と連合し、
矢島氏と数度の紛争を繰り返し、
小野寺氏との大沢合戦では由利十二頭の
一人として戦いに馳せ参じました。
1590年、小田原征伐では参陣を果たし
所領は安堵され以後仁賀保氏と共に行動、
常陸国に領地替えが行われた際同行せず、
最上氏に仕官を行い改易後は、
荘内藩酒井家に仕官を行いました。
現在由利本荘市西目潟保には
潟保氏が居館した孔雀館跡や
菩提寺宗老寺が残されています。
山崎館跡
瑞光寺
由利本荘市鮎川を
本拠地とする鮎川氏。
先祖は仁賀保氏・矢島氏と同じく
小笠原氏流の大井氏を祖としており、
東鮎川に山崎館を構え統治を行いました。
鮎川氏の資料は乏しく
その歴史に不明な点が多いですが、
鮎川氏は庄内の戦国大名武藤氏と
通じていたと記録に残されており、
矢島・仁賀保氏の争いでは
矢島氏に与していたことから同士滅亡後
仁賀保氏によって没落したとも、
子孫は最上氏に仕えたが
最上義光によって改易されたとも
伝えられています。
こちらの瑞光寺は
鮎川氏の祈願所だった寺院だとされ、
また境内には中国唐の将軍で
暴風により有耶無耶の関に漂着し
その後この地で亡くなった
万箇将軍の墓が残されています
子吉館跡
正乗寺
由利本荘市子吉(現薬師堂)を
中心に本拠地とした子吉氏。
1399年、子吉修理之助が
子吉郷を領し子吉館に居住したと
伝えられています。
仁賀保・矢島氏の争いでは
仁賀保氏に与し矢島氏を討つ等の
記録が残されており、
当初小石と称していましたが、
小吉・子吉と名を改め
子孫は江戸時代に佐竹氏に仕えました。
現在薬師堂から程近くにあります
子吉保育園から北に広がる山間に
子吉館が設けられていたとされており、
麓には菩提寺の正乗寺が建立されており
本堂にあります昇降龍図と鳴竜天井は
石沢館跡(舘神明社)
大蔵寺
由利本荘市館地区を
本拠地とした石沢氏。
先祖は仁賀保氏・矢島氏と同じく
小笠原氏流の大井氏を祖としており、
現在館地区神明社がある場所に
石沢館を築城してこの地の統治を行いました。
石沢氏に関する記録は少なく、
軍記物による隣接する下村館主下村氏とは
何度か小競り合いが行われたの記録が残され、
豊臣秀吉の奥州仕置きでは領地が安堵、
200石が安堵されたと
記録に残されています。
しかし1622年、最上家改易が行われると
石沢氏は当地を離れ
石沢館も破棄されたと考えられており、
その子孫は庄内酒井家に仕えました。
現在館地区には
石沢館の遺構は殆ど残されておりませんが
館より少し北にあります湯沢地区には
石沢氏の菩提寺である大蔵寺が残されており、
石沢氏に関する歴史を少し説明しております。
下村館跡(岩館のイチョウ)
蔵立寺
由利本荘市東由利蔵岩館を
本拠地とした下村氏。
北条義時との和田合戦によって滅ぼされた
和田義盛の一族蘆名太郎が
由利郡に入部し下村氏と名乗り、
応仁年間(1467-69)頃に下村彦次郎宗長によって
下村館を築いたとされています。
近隣の石沢氏とは度々合戦を行い、
小野寺氏と戦った大沢山合戦や
九戸政実の乱にも出陣しましたが、
しかし1590年行われた太閤検地の際、
大谷吉継に従った由利衆とは逆に
検地反対の山北一揆に
玉米氏らと共に荷担した事から
他由利衆から攻められ滅亡、
子孫は久保田藩佐竹氏の家臣
梅津憲忠の家臣となりました。
現在由利本荘市東由利蔵地区を中心に
下村館跡や菩提寺蔵立寺には墓碑が残され、
館跡には岩舘のイチョウが聳え立っており、
秋田県天然記念物に指定されています。
玉米館跡(旧八塩小学校)
泉秀寺
由利本荘市東由利舘合を
本拠地とした玉米氏。
小笠原氏流の大井氏を祖としており
近隣の矢島氏と
近い関係であったと考えられる人物で、
居館を旧八塩小学校がある舘合に構え、
菩提寺泉秀寺を創建しましたが、
1715年の火災によって寺が焼失すると
老方老方に移転された経緯があります。
玉米氏の詳細は不明な点が多いですが、
近隣の矢島氏や山田氏とは
度々交戦したとの記録が残されており、
矢島氏滅亡の際は仁賀保氏側に荷担し、
西馬音内の小野寺茂道のもとに逃れた
矢島満安を追撃するべく、
玉米氏は下村氏と共に
使者となり離反工作を行いました。
しかし1590年行われた太閤検地の際、
大谷吉継に従った由利衆とは逆に
検地反対の山北一揆に荷担した事から滅亡、
またその子孫は本荘藩六郷氏に
仕えたともされています。
史跡ですが旧八塩小学校近くにあります
大物忌神社は玉米館の本郭跡だとされており
菩提寺泉秀寺には玉米氏の墓碑が残されています。
羽川新館跡
珠林寺
秋田市下浜羽川付近を
本拠地とした羽川氏。
伝承によると1401年、
新田義貞の系譜にあたる
新田義政なる人物がこの地に入部し
羽川氏と名乗ります。
戦国時代に入りますと赤尾津氏と共に
仙北大曲城前田氏の攻略、
安藤氏一族の内紛第三次湊合戦では
檜山安藤氏側に味方した事から
戦後秋田市豊島にあります
豊島城を与えられました。
しかしその後、
赤尾津氏の策略によって居館を奇襲され、
帰る領土を失い没落したと伝わります。
秋田市下浜羽川には
居館の羽川新館や菩提寺珠林寺が
残されています。
羽川氏と羽川新館を
詳しく紹介した記事はこちら
如何だったでしょうか
戦国時代の由利地方ではこのような
小勢力による争いが行われており、
近隣の安藤氏や小野寺氏と比べ
秋田県の歴史では影が薄いですが、
由利地方の歴史を知るうえで
とても重要な歴史が数多く残されています。
秋田県由利地方にお越しの際は
ぜひ由利十二頭の歴史や史跡を
巡ってみてください。
由利十二頭
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