KABUO原付CUBで激走。山形東北歴史・史跡・グルメ巡りの旅(時々海外も)

故郷山形を中心に東北各地の歴史や史跡、グルメなんかを読者の方々に詳しくご紹介出来ればと思います。

由利本荘市 亀田藩と亀田城(亀田陣屋)の歴史と史跡をご紹介!🏯

どーもKABUOです。

 

秋田県由利地方の歴史と史跡を巡る

旅に行って来ました。

今回は江戸時代城下町として栄え、

岩城氏によって統治が行われた

亀田藩と居城亀田城の

歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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亀田藩と亀田陣屋の歴史と史跡をご紹介!🏯

 

 

赤尾津城

 

由利本庄市岩城亀田にあります亀田城、

別名亀田陣屋とも呼ばれ

江戸時代岩城氏によって

亀田藩が立藩された後

居城として使用されました。

 

亀田藩立藩される以前の歴史ですが、

中世の時代この地は由利十二頭の一人

赤尾津氏によって統治され、

1600年、関ヶ原の戦いが始まりると

東軍方に与した山形城主最上義光は

戦後恩賞によって領地が加増され

亀田地区及び由利地方を手中に収めます。

 

当時西軍に与した佐竹氏が

常陸から秋田に入部した事から

重臣楯岡満茂を由利十二頭の一人

赤尾津氏が居城した赤尾津城に入城させ

城下町の整備と佐竹氏に対する

警戒に当たらせました。

 

現在亀田の城下町を歩くと

楯岡満茂が入部した際に整備を行い

最上家臣団が居住を行った場所が

岩城亀田最上町という地名で残されており

高城山にあります赤尾津城跡からは

岩城町亀田の景色が一望できる

おすすめスポットとなっています。

 

 

亀田藩主岩城家墓所

(龍門寺)

 


龍門寺山門

 

1622年、最上家が改易されると、

宇都宮城釣天井事件によって失脚した

本田正純が由利地方を与えられましたが、

その後所領を召し上げられ変わりに

信濃川中島藩より岩城義隆が

亀田2万石が与えられ亀田藩を立藩。

岩城氏の入部にともない

高城山赤尾津城の山麓に新たに

亀田陣屋の築城を行い居城とします

 

岩城氏は磐城平(現福島県いわき市)を拠点に、

祖先は奥州藤原氏も関係が深く、

戦国時代には近隣の伊達・相馬・田村氏と

抗争を繰り広げた名家でありましたが、

関ヶ原の合戦では縁戚関係でありました

佐竹氏と足並みを揃え日和見を行った事から

戦後所領は没収され改易の処分を受けました。

その後大阪夏の陣では戦功を上げた事から

信濃川中島藩の入部が認められ

大名として復帰しました。

 

こちらの龍門寺は岩城氏の菩提寺で、

室町時代福島県いわき市荒川に創建され

その後1628年この地に移建されました。

お寺の境内にあります亀田藩主岩城墓所は

秋田県指定史跡、

本荘八幡神社より移築された龍門寺山門は

由利本庄市指定史跡に登録されています。

 

 

 

 

 

妙慶寺(顕性院墓所)

 

その後初代藩主岩城義隆は

叔父で久保田藩主佐竹義宣の

養子に入りした事により

亀田藩には義宣の弟で

檜山城主多賀谷宣家が跡を引き継ぎ

名を岩城宣隆と改め、

2代目藩主として岩城家の家督を継ぎ

以後幕末明治まで200年以上に渡り

岩城氏によって統治される事となりました

 

岩城氏の入部にともない

佐竹氏の援助指導のもと町割り行われ、

亀田藩三代藩主岩城重隆は

新田開発や蚕産業の発展等

歴代藩主中の名君と呼ばれるほど

領内の経営に尽力しました。

 

こちらの妙慶寺は岩城重隆の

生母顕性院によって開基されたお寺で、

顕性院は俗名お田の方(本名はお直)といい

真田信繁(幸村)の娘と伝えられており、

岩城宣隆の弟宣家は正室とは不和で

兄宣隆と京にのぼったときにお直を見初めて

継室として迎えたといい、

境内には顕性院の墓所の他、

遺品が宝物殿に収められています。

 

 

天鷺神社

 

 

熊野神社

 

しかし藩の経営が

安定しているのにも関わらず、

佐竹氏の政治介入が続いた事から

藩士の間では不満が募り、

また養子を伊達氏より迎える等、

両家の血縁関係が薄まった事から、

領内を流れる雄物川舟運による

課税問題から両藩の対立、

藩境を巡る領地紛争、

藩財政圧迫によって引き起こされた

亀田藩士秋田退散事件が起こるなど、

幕末まで亀田藩・久保田藩の間では

トラブルが尽きる事はありませんでした。

 

岩城町亀田を歩きますと

岩城氏にまつわる社殿が多くあり、

亀田城より西にあります天鷺神社は

岩城家代々崇敬の神で磐梯平より移封され

現岩城亀田の勧請した歴史があります

城より北にあります熊野神社は

明和2年の大火によって焼失すると

5代藩主岩城隆恭により

現在地に拝殿が再建された歴史があり

亀田地区の鎮守社として

地元の方が多く参拝に訪れています。

 

 

亀田陣屋(亀田城)

(亀田城佐藤八十八美術館入口)

 

 

旧亀田小学校グランド

 

1868年、明治戊辰戦争が始まると、

当初久保田藩や近隣諸藩と共に

奥羽越列藩同盟に亀田藩は参加しましたが、

12代藩主岩城隆邦は明治天皇に拝見する等

勤王派だった事により、

久保田藩や由利諸藩とともに

新政府軍に与する事となります。

その為庄内藩からの侵攻を受け

三崎合戦では多くの戦死者を産み出し、

頼みの久保田藩には応援の策も無く

孤軍奮闘する事となりました。

 

この間新政府軍による粗暴な行動から

藩士の間で不信感が高まり、

家臣らの説得によって庄内藩に降服すると

藩主は家族とともに庄内に避難しましたが、

やがて軍備にすぐれた新政府軍の

援軍の到着によって戦局は逆転すると、

亀田藩は攻撃される側となり、

城は落城し焼け落ちる事となり、

その歴史に幕を閉じる事となりました。

 

現在亀田城跡地には

亀田城佐藤八十八美術館が建造されており、

旧亀田小学校やグランド整備によって

遺構は消失しており

僅に内堀と土塁が残されております。

 

 

天鷺村

 

 

佐々木利三朗家住宅

 

現在由利本庄市亀田地区には

亀田城の大手門を復元、

亀田藩の歴史が学べる天鷺村や

亀田城下の町人町の景観が残る

国登録有形文化財に指定されている

佐々木利三朗家住宅等見所が満載です!。

由利本庄市に観光にお越しの際は

亀田城や城下町巡りを行ってみてください

 

 

こちらが史跡の場所です。

 

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