どーもKABUOです。
歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。
今回は由利本荘市矢島エリアにあります
矢島藩の居城がありました
八森城の歴史と史跡をご紹介します。
八森城の歴史と史跡をご紹介!
八森城趾碑
八森城松並木
由利本荘市矢島町にあります八森城
比高20m・東西230m-南北150m程あり
現在城跡に矢島小学校が建造され
同時の水壕・土塁・石垣・校門付近に
松並木と史跡が残されており
由利本荘市指定史跡に指定されています。
その歴史ですが
1467年、信州大井之庄から下った
大井義久は矢島の領主となった際、
八森城が築城されたと考えられています。
その後大井氏は矢島と名称を変え
矢島エリアを中心に勢力を広げました。
現地の案内板では矢島氏の居城として
説明されておりましたが、
矢島氏の居城は矢島根城館(現矢島八幡神社)を
本拠地としていた為、
八森城は支城として使用されていたと
考えられています。
八森城水堀跡
八森城縄張り図
その後矢島氏は4代矢島満安の時代、
1592年、山形城主最上義光の助勢を得た
仁賀保氏・滝沢氏を含めた
由利地方の国人連合衆との戦いに破れ、
西馬音内の小野寺茂道を頼るも後に自刃。
矢島氏旧臣菊地長右衛門を城代として据え
統治を行いました。
八森城旧表門跡
藩学校日新堂跡
1602年、関ヶ原の合戦の戦功に
由利地方一帯を領有する事となった
最上義光は家臣楯岡満茂を入部させると
満茂の弟楯岡満広を矢島3000石に分石して
八森城に居城する事となります。
しかし1622年、最上家の家臣団の内紛により
幕府によって改役を命じられる事なり、
満広は矢島の地を去る事となります。
龍源寺
1623年、由利国人衆の一人であった
打越光隆は常州行方郡新宮から
再び由利に帰り矢島3000石を与えられ
八森城に入城し統治を行いましたが
1635年、2代打越光久は嫡子なく没し
打越家はお家断絶となると所領は没収され
庄内藩酒井家の預かり地となりました。
こちらの龍源寺は打越氏、
境内には打越氏の銅像や墓碑
生駒氏歴代藩主の墓碑が残されています。
金刀比神社
民部坂
1640年、高松藩生駒氏は家臣団の内紛により
領地が没収され堪忍料として
矢島10000石を与えられ矢島藩を立藩。
八森城に居城を移し藩政が行われましたが、
藩主は江戸屋敷での政務を行い
矢島領地はもっぱら家臣団によって
統治が行われていましたが悪政酷く、
多くの領民は矢島の地を離れ
逃亡を図ったとの記録が残されており、
1777年、8代藩主生駒親睦のときに
江戸在勤の任が解かれ矢島の地に戻り
その後歴代藩主によって
藩政に力を注がれるようになりました。
こちらの金刀比神社は
生駒氏が讃岐から矢島に転封されるに当たり
有名な金刀比大権現の分霊を奉持して
往来より打越氏が同所に祀っておりました
稲荷神社と合祀し、
社格も領地守護の鎮守社として
生駒氏の武運長久と領内安穏を祈願しました。
民部坂は生駒氏時代、
家中河西家の手前、
坂の登口に櫻庭民部の屋敷があったことから
通称民部坂と呼ばれるようになり
藩政時代近在の農家が八森城に
年貢米を収めるための運搬道路に利用され、
年貢坂とも伝えられています。
矢島神社
1868年、戊辰戦争が勃発すると
12代藩主生駒親敬は早くから
新政府方への志を明らかにした事から、
そのため鳥海山頂を越えて木境口から
庄内兵が一挙に攻め入り矢島を占領すると
八森城及び城下の町家が焼失します。
しかし藩主以下仙北方面で
吸収諸藩兵や秋田兵とともに
転戦・奮戦したその功により
戦後15200石へと加増。
廃藩置県後は八森城は破却され
現在の学校用地として
利用される事となりました。
矢島小学校から少し東にあります
こちらの矢島神社は、
1882年、旧矢島藩士と旧領民によって
生駒家初代生駒親正、
その後1892年に生駒親敬の祭祀が行われ
建立された神社になります。
今回八森城の散策にあたり
案内板の縄張り図を参考にしましたが
当時の城下町の風景が
現在の町並みでも残されており
とても散策しがいのある史跡跡でした。
由利本荘市矢島エリアにお越しの際は
ぜひ八森城及び矢島町の
散策を行ってみてください
こちらが史跡の場所です。
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