どーもKABUOです。
山形県庄内地方の歴史と史跡を巡る
旅に行ってきました。
前回の記事はこちらです
今回は酒田市中心街から
旧平田町・旧八幡町・旧松山町を含め
旧鐙屋や酒田町奉行所跡や
日本で数本の指に入る大地主の本間家等
近世江戸時代の歴史や史跡をご紹介します。
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青原寺
近世の時代
1600年、関ヶ原の戦いが起こると、
上杉方は親徳川方の最上義光の領土に侵攻、
家臣東禅寺城主志駄義秀は出陣を行い、
白岩・寒河江の最上の支城を攻め落としたが、
西軍の敗報が伝わると兵を酒田に引き上げた。
最上勢は攻勢に転じ翌1601年、
東禅寺城を攻め落とし志駄義秀は城を開城、
米沢に撤退する事となり、
再び庄内地方は最上義光の手に帰した。
家臣志村光安を東禅寺城主に据えると
東禅寺城を亀ヶ崎城と名称を改称、
戦で荒廃した城下町の再生に着手を行い、
町割りが行われ現在の酒田市中心街の
原型が形作られる事となります。
しかし1614、光安の嫡子光清が
添川の楯主一栗兵部によって殺害される等、
最上義光の死後家中がまとまらず、
1622年、深く懸念した
江戸幕府の命によって
最上家は改易させられるのでありました。
こちらの青原寺は志村光安の菩提寺で
夫妻のお墓が建立されています。
旧鐙屋
酒田三十六人衆ゆかりの地
酒田市に東禅寺城が築かれた頃から
現在の市街地側が海船の停泊地となり
飛砂の害を避ける目的もあって
柚ノ浦から西浜に
移転しようとする気運が高まり、
大永年間(1521~28)頃から
酒田三十六人衆も移住しはじめ、
本町に町づくりが開始された。
柚ノ浦時代からすでに酒田三十六衆による
酒田の自治運営が始められていたが、
その伝統は新酒田となってますます発展した。
最上氏は酒田長人を
好遇活用し年寄に屋号を与え、
これによって鐙屋などの名も起こり、
酒田の商人文化が花を開く事となりました。
こちらの旧鐙屋は酒田を代表する廻船問屋で
酒田三十六人衆の主要メンバーであり、
当時の鐙屋の繁栄ぶりは井原西鶴の
「日本永代蔵」にも紹介されるほどで
石置杉皮葺屋の典型的な町家造りとなっており、
国の史跡指定されています。
酒田町奉行所
1622年、最上家の改易に伴い
信濃松代藩より酒井忠勝が入部し
鶴ヶ岡城を居城とする庄内藩を立藩。
亀ヶ崎城には城代を置き
酒田町奉行所も置かれ、
酒田を酒田町・米屋町・内町の3組に分け
各組に大肝煎と組下各町ごとに
肝煎が置かれた。
こちらの酒田町奉行所では、
町奉行が執務および居住したところで
東側には庄内藩の米蔵等が設けられ、
亀ヶ崎城代の下で酒田町の治安や町政を
担当していました。
現在遺構跡には当時の奉行所を復元した
レプリカが展示されています。
松山城
心光寺(酒井家御廟所)
1647年、庄内藩主酒井忠勝の死去に伴い、
家督を嫡男忠当が引き継ぎ
三男忠恒は松山の地を分与され松山藩立藩、
3代酒井忠林の幕政の活躍により
幕府により城持ちを許され
7年の歳月を経て松山城を築城、
松山周辺領土及び、
大江町左沢に代官を派遣して
統治が行われました
酒田市旧松山町には
松山城の大手門が残されており、
山形県指定有形文化財に登録されています。
松山城の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです
河村瑞賢像
日和山公園
最上川を川船で積み下ろされた
内陸の米・蔵物・紅花
青苧・蝋・タバコなどの
特産物は酒田に寄港する
諸国商船によって上片に運ばれ
上片から木綿・衣類・砂糖・塩
また蝦夷地から海産物などが
酒田問屋の手によって川船に積み替えられて
内陸の商人に送られ最上川筋には
清川(庄内町)・清水(大蔵村)・大石田(大石田町)
舟町(山形市)などの諸河岸が栄え
酒田は元禄年間頃には空前の賑わいを見せた。
こうした繁栄は寛文年間に
河村瑞賢が来酒して、田川郡・村山郡内の
城米の積み出しの方法を定め、
上方まで約3か月で
回送することを可能とした
西廻航路の整備によるものであった。
日和山下に船着場や御米置場が
設けられたのもこの時だとされています。
現在桜の名所にでも知られている
日和山公園には河村瑞賢の像が建てられており
その功績を讃えています。
日和山公園の歴史と史跡を
紹介した記事はこちらです。
本間家本邸
浄福寺
本間家の祖主光重の出自には諸説あり、
永禄年間頃酒田本町2丁目に居住し
商業を営んだ長久のひとりとされ、
本間家では久四郎原光を初代とされている。
原光は酒田商人の基盤を固め
商業に才を振るう一方、
長人として三十六人衆中重きをなした。
2代光寿の代である享保・元文年間頃には
酒田町の献金額でも筆頭となり、
たびたび藩の借財にも応じている。
3代光丘は商業のみならず、
安永・天明年間の窮迫した
庄内藩財政の再建にも手腕を発揮して
士分に取り立てられたほか
米沢・新庄・本荘・亀田・弘前などの
諸藩にも融資して窮地を救った。
光丘の代には土地集積も急増し
その面積は1000万平方メートルに及び、
日本有数の大地主に成長しました。
現在本間家本邸は一般開放され見学でき、
山形県指定文化財に登録され、
本間家の菩提寺ある浄福寺の唐門は
酒田市指定文化財に登録されています。
松尾芭蕉像
(日和山公園)
不玉宅跡
江戸とのつながりの強い鶴岡の学芸に対し、
酒田では上方により強い関連がみられる。
酒田から上方・長崎に遊学して
当地に名を残した文人も多く、
また文人墨客の来酒も相次ぎました
1689年、俳人松尾芭蕉も来訪し、
伊藤不玉宅に宿をとり句会の興行が行われ、
1784、菅江真澄も酒田に来訪した
記録が残されています。
以上酒田市の歴史と史跡、
近世江戸時代のご紹介でした
次回は幕末から近現代までの
歴史をご紹介します
次回の記事の続き
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