どーもKABUOです。
旅に行ってきました。
前回の記事はこちらです
今回は酒田市中心街から
旧平田町・旧八幡町・旧松山町を含め
中世の時代から戦国時代をかけ
酒田の始まりとされる
酒田三十六人衆伝説や
歴史や史跡をご紹介します。
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酒田市の歴史と史跡をご紹介!(中世~戦国時代編)⚓
泉流寺
徳尼公廟
中世の時代
田川太郎行文によって
統括が行われておりましたが、
1189年、源頼朝によって滅ぼされると
配下武藤氏平を田川郡一帯にありました
大泉荘の地頭に任命。
大宝寺氏と名を変え領国の経営が行い、
この地の豪族坂田氏を配下に収め
統治させたと記録に残されています。
奥州藤原氏の滅亡に際し、
藤原秀衡の妹、または後妻とされる徳の前は
戦乱を逃れ遺臣36人に守られながら
酒田市柚ノ浦(現宮野浦)に移り住りすみ
藤原一門の菩提を弔いながら
静かに余生を送り1217年、
泉流寺の草庵で87才で亡くなりました。
後に遺臣36人は地侍として土着すると
廻船問屋を開き酒田湊繁栄の礎を築いた
酒田三十六人衆伝説が残されています。
こちらの泉流寺には
徳の前の木造が安置されており
登録されています。
生石板碑群
山谷八幡森阿弥陀三尊板碑
南北朝の時代
立谷沢城や藤島城で転戦を繰り広げましたが、
藤島城を攻め落とされると顕信ら南朝方は
1358年、吹浦大物忌神社に
顕信は神領を寄進を行い祈願をしましたが
勢力回復には至らず北朝方に制圧されました。
酒田市生石・山谷三ヶ沢には
南朝年号の板碑が残されており
敗走した南朝方の足取りを確認する事ができ、
山谷八幡森阿弥陀三尊板碑は
砂越城跡
戦国時代、
南北朝動乱後旧平田町周辺で
勢力を広げたのが豪族砂越氏でした。
次第に自立性を強めると、
1478年、砂越氏雄が幕府に直礼するなど
宗家武藤氏に対抗する勢いを見せるに及んだ。
東禅寺城(亀ヶ崎城)を築いて対抗します。
1512年、抗争が激化すると
1000余人を打死させた
これを東禅寺合戦いいます。
両氏の抗争はその後も繰り広げられ、
城下が焼失する大敗を喫した。
こちらの旧平田町にあります砂越城は
砂越氏の居城であった場所で
本丸・土塁・水壕の遺構が残されており
見ごたえがありました。
砂越城の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです。
東禅寺城跡(亀ヶ崎城)
大敗を喫した大宝寺氏は
居城を尾浦城に移すと、
越後上杉氏の勢力を背景に砂越氏と和睦。
その後庄内地方の覇権を握り
各地の土豪を配下に収めます。
17代当主義氏の時代に最盛期を迎え、
村山・最上・秋田県由利地方まで
その勢力を広げました。
また義氏は妹婿の東禅寺勝長(前森蔵人)を
尾浦城の在番させ、その弟東禅寺勝正と
名乗らせて東禅寺城に入れた。
しかし前森蔵人はひそかに最上義光と通じて、
1583年、兵をあげ他の国人衆とともに
義氏を倒してしまった。
義氏の後には弟の丸岡義興が家督を継いだが、
1587年、最上・東禅寺氏により
居城尾浦城を攻め落とされ
義興は自刃する事となります。
同氏に国人らの信望が無く
本庄繁長が1588年に庄内を攻め、
十五里ヶ原の戦いで最上・東禅寺軍を破り
東禅寺城に入ると、
翌1589年、豊臣秀吉によって
庄内は上杉景勝に与えられる事となりした。
東禅寺城がありました酒田東高校には
当時の土塁跡があり
当時の遺構が残されています。
東禅寺城の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです。
朝日山城
庄内に入部した上杉氏は領地の検地を実地、
しかし各地の国人衆の反発が起こり、
反対一揆が各地で勃発すると、
観音寺城・朝日山城等上杉氏の支城を攻め
籠城を行われる等の徹底抗戦が行われ、
その後上杉氏家臣直江兼続の働きにより
一気は鎮圧され終息する事となりました。
こちらの観音寺城・朝日山城は
一揆勢が立て籠り上杉氏相手に
籠城が行われた歴史があります。
観音寺城の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです。
以上酒田市の歴史と史跡を
原始~古代編のご紹介でした
次回は近世江戸時代までの
歴史をご紹介します
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