KABUOのブラリ放浪記

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酒田市 亀ヶ崎城(東禅寺城)の歴史と史跡をご紹介!🏯

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どーもKABUOです。

 

山形県庄内地方の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

今回は酒田市にありますお城跡、

亀ヶ崎城の歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

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亀ヶ崎城の歴史と史跡をご紹介!🏯

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亀ヶ崎城(酒田東高校)

 

酒田市亀ヶ崎にあります亀ヶ崎城、

最上川右岸の微高地に立地し、

標高3mの平地に築かれた輪郭式の平城、

三重ないし四重の壕に囲まれておりました。

本丸は幅9~12m・高さ4m程の土塁と

幅32m・深さ1m程の壕で囲まれ、

二の丸には城代屋敷が置かれ、

三の丸は侍屋敷となっており

二重の濠が設けられていたとされます。

城の南を流れる最上川

現在よりも城の南側間近を流れ、

天然の壕の役目を果たし、

西には新井田川も流れ自然の地形を活かした

巧みな築城が行われました。

 

現在酒田東高校がある敷地内が

亀ヶ崎城の本丸・二の丸があった場所で、

一部土塁が等の遺構が残されています。

 

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亀ヶ崎城縄張り図

 

その歴史ですがこの地を治めていた

土豪坂田氏により四ツ興野・大町地区から

東南の位置に築城されたのが始まりだとされ、

その後、現在の遊佐町一帯で勢力を誇った

遊佐氏によって坂田氏は滅ぼされたいいます。

1466年、大洪水よって城が損壊したため

遊佐繁元によって現在の亀ヶ崎の地に

移築したと考えられています。

しかし遊佐氏も田川郡で勢力を広げた

武藤氏(大宝寺氏)によって

攻め滅ぼされる事となりました。

 

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亀ヶ崎城土塁跡

 

1478年、武藤氏の一族である

砂越氏が飽海郡一帯で勢力を広げるにあたり

宗家武藤氏から独立を画策し対立が深まると、

武藤氏は砂越氏に備え東禅寺城の改修を行い

一族の東禅寺氏が居城し、

川北(最上川右岸)で相当な勢力を有します。

戦国期には両者の争いが激化し

東禅寺城周辺で戦いが繰り広げられましたが、

越後上杉氏を後ろ楯に持つ

武藤氏が徐々に優勢となると和解が進み

砂越氏を傘下に収める事に成功しました。

 

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亀ヶ崎城三の丸跡

(亀ヶ崎小学校敷地内)

 

勢力を拡大させた武藤氏は庄内地方を統一、

家臣前森蔵人の弟勝正を城主に据えて

領国の経営を行いました。

17代当主武藤義氏の時代に最盛期を向かえ

近隣諸国に侵攻を進めましたが

その強引な手腕から国人衆の反発を招き、

1583年、山形城主最上義光と手を結んだ

前森蔵人や庄内国人衆の反旗によって

武藤義氏は討ち取られてしまいました。

 

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日枝神社

 

その後前森蔵人は東禅寺氏を名乗り

最上義光の勢力を背景に

庄内地方の経営を行いましたが、

一方当主を失った武藤氏は

義氏の弟義興が家督を引き継ぎ、

上杉氏家臣本庄繁長から養子を向かえる等

お家復興に尽力を注ぎましたが、

過去の対立によって東禅寺氏と武藤氏が対立、

1587年、最上義光東禅寺連合軍は

義興の居城尾浦城を強襲して城は落城

武藤氏は滅びる事となります。

 

こちらの上日枝神社

875年に創建された神社で

東禅寺城が築かれると城の鎮守社として

城内に遷座されていた歴史を持ち

1636年に現在の場所に再遷座されました。

 

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亀ヶ崎城丸之御橋跡

 

武藤義興の養子で本庄繁長の実子武藤義勝は

庄内を脱出し父のいる越後に落ち延びると

旧領を奪取すべく父繁長と共に

翌年1588年、庄内地方に攻め寄せると、

東禅寺義長(前森蔵人)は義勝を迎え撃ちましたが

十五里ヶ原の戦いで敗北し義長は討死、

弟勝正は繁長本陣に奇襲をかけましたが

あと一歩のところで討ち取られてしまい

壮絶な討死を遂げました。

 

こちらの亀ヶ崎城丸之御橋跡は

新井田橋とともに亀ヶ崎城の

二つの出入り口であり、

長い間鶴岡や松山に通じる、

橋としての役目を果たしてきました。

 

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大町溝

 

最上軍との戦いを制した上杉氏は

東禅寺城に甘粕景継を城主に据えると、

景継は農業用灌漑用水路

「大町溝」の創設を行う実績を残しましたが、

1598年、上杉景勝会津に移封されると

東禅寺城主には志駄義秀が任ぜられました。

1600年、関ヶ原の合戦が始まると、

義秀は出兵し最上領へと侵攻を進めましたが、

後に西軍の敗退の報を聞き付け撤退。

翌1601年、最上軍が庄内に攻め寄せると

義秀は東禅寺城で籠城を行うも敵わず、

城を明け渡す事となりました。

 

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志村光安夫妻墓所

(青原寺)

 

関ヶ原の合戦後、戦いの恩賞によって

庄内地方を領有した最上義光山形藩を立藩。

1603年、酒田の浜に巨大な亀が上陸すると

義光はこれを吉兆と捉え東禅寺城を

亀ヶ崎城へと改称する事となります。

慶長出羽合戦で直江兼続相手に奮戦し、

長谷堂城を守り武功を上げた志村光安に

3万石の領土を与え東禅寺城主に抜擢。

城下町の町割りや道路の整備

菩提寺青原寺の創建を行いました。

 

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亀ヶ崎八幡神社

 

しかし、息子光清は慶長出羽合戦で

恩賞に不満を持った一栗高春によって

城内で殺害される等、

義光死後は家中が大いに乱れた事から

1622年、最上家は改易を命じられると

同年信州松代より酒井忠勝が入封して

庄内藩を立藩すると亀ヶ崎城には城代が置かれ

以後幕末まで存続する事となりました。

 

こちらの亀ヶ崎八幡神社

前名を東禅寺八幡神社と称し、

城内の鎮守を祈願して創建された歴史を持ち、

亀ヶ崎の由来となる巨大な亀の像が

置かれていました。

 

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亀ヶ崎城搦手門

(円通寺)

 

現在宅地開発によって

亀ヶ崎城の遺構は殆ど消失しましたが

酒田市吉田伊勢塚にあります円通寺には

搦手門として使用された門が移築され

現在でもお寺の山門として使用され

亀ヶ崎城の貴重な遺構として残されています。

酒田市に観光のお越しの際は、

亀ヶ崎城の遺構巡りを行ってみてください。

以上亀ヶ崎城の歴史と史跡のご紹介でした。

 

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こちらが史跡のアクセス場所です。

 

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