どーもKABUOです。
旅に行ってきました。
今回は酒田市にありますお城跡、
新田目城の歴史と史跡をご紹介します。
スポンサーリンク
新田目城の歴史と史跡をご紹介!🏯
新田目城跡
(本楯大物忌神社)
酒田市本楯地区にあります新田目城。
庄内平野北部の平地に立地。
標高10mの平地に築かれた
単郭方形式の平城。
東西150m・南北93mの規模を有し、
周囲を幅12mの堀が囲み、
内側の土塁は高さ4.5m
現在城跡の西半分は旧本楯小学校の
敷地となって原型をとどめていないが、
東半分は大物忌神社の境内となっており、
土塁・壕は原形を比較的良く遺存している。
(角川日本地名大事典引用)
また東側にあります
正伝寺・悦岩寺・梵照寺の三寺の
東側に土塁が確認されています
新田目城縄張り図
(山形県中世城館遺跡調査報告書引用)
その歴史ですが
前九年の役後の11世紀後半、
源義家から出羽留守所職に任じられた
須藤氏が築いたものと伝えられており、
主に城輪柵に赴任する
国司の代わりに職務の代行を行ったり、
また国府移転後の所在地とも考えられ
県内最古の城ともいわれています。
新田目城の縄張り図や衛星写真から見ると
平地に築かれており壕跡の形跡があるものの
周辺には城を守る山や河川が無く、
戦う城としてはとても
不向きな立地をしており、
防御する面よりも地域を統括する
政務の点で築城されたと考えると、
国府の移転先として考えられても
不思議ではありません。
本楯大物忌神社本殿と参道
須藤氏はその後留守氏と名乗り土着すると、
代々吹浦大物忌神社の神主を勤めたとされ、
新田目城を中心に川北(最上川より北の地域)で
勢力を有しておりましたが、
戦国時代に入りますと田川郡で勢力を伸ばす
最上氏・上杉氏の出兵によって
庄内地方は戦乱へと巻き込まれましたが
武藤氏・最上氏・上杉氏と
巧みに情勢を見極め強豪勢力に与し
戦国時代を生き延びました。
こちらの本楯大物忌神社は
分霊を勧請したのが始まりだと伝えられ、
新田目城の主郭であったと考えられ、
見事勝利し際に奉納した太刀は
国指定重要文化財に登録されています。
新田目城壕跡
新田目城土塁跡
関ヶ原の合戦後、
以後留守氏は今井氏を称し、
1615年、一国一城令に新田目城は廃城、
1622年、最上家の改易後は
今井氏は帰農してそのまま本楯地区に
居住して肝煎として続くこととなり
現在も須藤氏以来の家系図を伝えています。
本楯大物忌神社境内を歩くと
北側には当時の壕跡の一部が残され
土塁も一部確認する事が出来ます。
酒田市北部農民センター
(旧本楯小学校)
現在新田目城あります本楯大物忌神社では
毎年5月の例大祭で行われる
本楯神代神楽が奉納され
古式を伝える貴重な神事として
新田目城跡として山形県指定史跡に
登録されています。
遺稿も所々に残されており
中世の庄内地方の歴史を学べますので
酒田市に観光にお越しの際は
新田目城跡にぜひ足を運んでみてください。
ランキングに参加しています
記事の内容がよろしければ
バナークリックをお願いします
こちらが新田目城の場所です。
スポンサーリンク