KABUO原付CUBで激走。山形東北歴史・史跡・グルメ巡りの旅(時々海外も)

故郷山形を中心に東北各地の歴史や史跡、グルメなんかを読者の方々に詳しくご紹介出来ればと思います。

酒田市 松山城の歴史と史跡をご紹介!🏯

どーもKABUOです。

 

山形県庄内地方の歴史と史跡を巡る

旅に行ってきました。

今回は酒田市旧松山町にあります

松山城と同城を治めた松山藩の

歴史と史跡をご紹介します。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

松山城の歴史と史跡をご紹介!🏯

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205161505j:plain

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205163021j:plain


総光寺

 

酒田市新屋敷にあります松山城跡、

その歴史です松山城の前身となります

陸奥国での戦いに破れこの地に逃れた

佐藤正信によって現在の酒田市稲荷沢付近に

中山館を築城した事が

始まりだとされています。

佐藤正信は1185年屋島の戦いで

源義経を屋から庇い討死した

佐藤継信の子孫だとも言われている人物です。

 

1384年、陸奥国胆沢郡(現岩手県)

永徳寺の月庵良円によって

総光寺が開山されると

正信は月庵に深く帰依し創建にも携わり、

方5町を寺地となし福田200石を寄進したと

伝えられています。

しかしその後の

佐藤氏の歴史は不明となっており

1532年、庄内地方の土豪の争いによって

総光寺も一度破却される事となりました。

 

こちらの総光寺はその2度の火災を経て再建、

松山藩士の菩提寺としても利用され

境内には佐藤正信一族を供養する開基堂の他に

参道のキノコスギは山形県天然記念物、

総光寺山門は酒田市重要文化財、

総光寺庭園は国指定名勝に登録され

とても見応えのある寺院となっています。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205211557j:plain

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205211752j:plain

 

中山神社

 

戦国時代にかけての

松山地区の歴史ははっきりとしておらず

大宝寺城主武藤氏(大宝寺氏)、

砂越城主砂越氏やその他土豪勢力によって

統治していたと思われます。

その後武藤氏 17当主義氏によって

庄内地方が地方が統一されましたが、

強引な政治手腕に嫌気が差した

国人衆らの反乱によって居城が襲われ

1583年、武藤義氏は自刃しました。

 

その後、庄内地方の覇権を巡り

上杉景勝・最上義光のよって争われ

1588年、十五里ヶ原の戦いで

最上連合軍は戦いに破れ

上杉氏が庄内地方を手中に収めましたが、

土豪を中心に検地反対一揆が各地で起こり、

上杉氏はその対処に追われる事となりました。

 

こちらの中山神社は松山地区の

総鎮守として1648年に創建され

藩祖酒井忠次と徳川家康の嫡男で

21歳の若さで不幸の死を遂げた

松平信康が祀られています。

また5月1日の祭礼では武者行列が展開され、

松山藩に伝わる荻野砲術の

演舞が公開されています。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205172838j:plain

 

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205172915j:plain

 

心光寺(酒井家御廟所)

 

 1600年、関ヶ原の合戦後、

戦いの恩賞により庄内地方を与えられた

最上義光は山形藩を立藩すると、

志村光安が東禅寺城代(亀ヶ崎城)となって

松山地区は治められていましたが、

1622年、最上家が改易されると

新たに酒井忠勝が庄内地方に入部、

庄内藩を立藩すると松山地区も庄内藩領となり

中山館跡地に中山陣屋を

創設し政務が行われました。

 

その後1647年、酒井忠勝の死去に伴い、

三男酒井忠恒は現在の松山地区8000石、

村山郡左沢領(現大江町左沢)12000石を

分封され松山藩を立藩。

当時中山という地名で呼ばれておりましたが

鶴ヶ岡城・亀ヶ崎城にちなみ藩の繁栄を願い、

縁起をかついで名前を松山に改称した事が

旧松山町の町名の由来となっています。

 

忠恒は菩提寺である

心光寺の創建を努めましたが

2万石の大名ではあるものの城持を許されず

現在生涯学習施設里仁館(里仁館高等学校跡)に

居館を設け政務を行いました。

 

こちらの心光寺には

歴代松山藩主が埋葬された御廟所があり

酒田市指定史跡に登録されています。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205222734j:plain

 

松山城大手門広場跡

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205222801j:plain


上堰通り

 

1663年、 忠恒は幕府から

駿府の警護にあたる駿府加番に命じられ、

2代藩主酒井忠予は

大坂御加番代や江戸増火消を歴任、

3代藩主酒井忠休は奏者番に寺社奉行加役、

西丸若年寄・二の丸若年寄・本丸若年寄と

江戸幕府の重臣として政務を行った結果

5000石が加増され実高25000石となり

松山に築城の許可がおりると

1782年、庄内藩の援助を受け

鶴岡宮田流軍師長坂十大夫の設計を受け

工事が着手され

7年の歳月と莫大な資金を投じ、

二の丸・土塁・壕・大手門が完成されました。

 

こちらの大手門広場跡にあります上堰通りは

江戸時代は農業用水に使用された他、

松山城の防護策の役割として利用されました。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205223232j:plain

 

十三間堀(外堀公園)

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205223704j:plain

 

本丸の土塁

 

松山城域は

東西468m・南北864m程となっており

本丸を東・南・北の三方から二の丸が囲み、

さらに南・西・北の三方から三の丸が囲み

西に大手門がありました。

 

松山城は現在の歴史公園を

中心に町割りが進められ

日本でも最も新しい城の一つとして

整備されてゆきます。

その縄張りは当時複雑に発展した

軍学理論の影響をうけ、

直線や曲線を多用した

幾何学的な設計であったといいます。

(現地案内板引用)

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205224401j:plain

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205224234j:plain


松山城大手門

 

しかし江戸での重臣の政務を全うする中、

江戸表経費の支出が重なり、

江戸藩邸や松山での火災による支出増、

領内での凶作は藩財政を圧迫する事となり、

藩主忠休の退隠・忠休側近派の追放

家臣の救済を求める宝暦事件が発生する等、

不安定な政策が続けられた結果、

財源不足や藩主の死去により工事は中断。

その後戊辰戦争では庄内藩と共に行動し、

新庄藩や久保田藩への攻撃や

藩境の国境の守備を行いましたが、

庄内藩の降伏ににより戦争は終結、

未完の城として明治時代を迎える事となり、

大手門を残し城は破却される事となりました。

 

こちらの松山城大手門は

1790年、落雷により大手門が炎上すると

酒田の豪商本間光丘・重利父子の

寄進によって再建された歴史を持ち、

山形県の中で唯一現存する城門遺構で

山形県指定有形文化財に登録されています。

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205225119j:plain

 

f:id:deep-karuma-waap-ec-real-s1:20211205225424j:plain

 

松山歴史公園

 

現在松山城は歴史公園として整備され

松山文化伝承館や松山城址館では

松山城や松山地区の歴史が学べる他、

城下町の風情が残り町歩きや史跡巡りにも

おすすめしたい

歴史観光スポットとなっています。

山形県酒田市に観光にお越しの際は

ぜひ松山城に訪れてみてください

 

ランキングに参加しています

記事の内容がよろしければ

バナークリックをお願いします

にほんブログ村 旅行ブログ 東北旅行へ
にほんブログ

 

 

スポンサーリンク