どーもKABUOです。
旅に行ってきました。
今回は酒田市旧八幡町にあります城跡、
観音寺城の歴史と史跡をご紹介します。
観音寺城の歴史と史跡をご紹介!🏯
観音寺城跡
別名来次城とも呼ばれこの地を治めた
土豪来次氏によって築城された
標高60mの通称福山中腹の段丘面に
築かれた連郭式の平山城になります。
東・南・西の三方は急峻な斜面で、
北は深い沢となり、天険を利用している。
北と西に空壕をめぐらし
規模は東西約103m・南北約81m程です。
観音寺城があります観音寺地区は
北は遊佐・西は城輪柵に新田目城、
東は最上地方を結ぶ青沢越ルートがあり、
交通の要所を抑える
目的があったと考えられます。
現在八幡小学校があります東側の山麓に
観音寺城が築城されました。
また八幡小学校は古楯という地名が残され、
平時の際の居館であったと考えられます。
観音寺城縄張り図
(山形県中世城館遺跡調査報告書)
来次氏の出自についての
資料は残されておりませんが伝承によると、
その祖先は伝承によると前九年の役で
源義家方に味方し奥羽北部で勢力を誇った
清原氏の一族だと伝えられています。
清原氏末弟の清原時衡は戦列を離れ、
以来20代にわたり山伏として
世を忍んできたが、20代来次氏房の時代、
現在八幡小学校がありますます古楯の地に
日向川の支流を巧みに利用した平城を築き、
氏房の子時秀の時代に
平城では防備上不安のため
古楯から麓山に城を
構えるべく着手しましたが、
しかし完成を見ずにこの世を去り
22代氏秀の手によって
築城される事となりました。
縄張り図を見ると
北には日向川・南には荒瀬川が流れ
天然の壕に見立て築城され、
攻めにくい要害の地であった事が分かります。
福市神社
来次氏は最上郡真室川領を通じる青沢越、
秋田県由利郡矢島に通じる升田越を掌握し、
荒瀬川ち日向川の上・中流域一帯を支配した。
そ
の後、勢力を広げ庄内統一を行った
尾浦城主武藤義氏に従順、
1578年、来次氏は義氏の命令に背きましたが
武力で攻めることなく
所領を与え安堵される等、
来次氏は庄内の国人衆の中でも
一目置かれる存在だったと考えられます。
八森温泉ゆりんこ近くにあります福市神社は、
平安前期871年に創建したと伝えられており、
観音寺城の築城に伴い城下町として整備され
来次氏秀によって歳の市が開催されると、
福市神社は商売繁盛の市神様として。
多くの人々の信仰を集めました
飛澤神社
1583年、苛烈な領国政策を行った武藤義氏は
山形城主最上義光と通じる
庄内の国人の反乱にあい
尾浦城で自刃しました。
来次氏は一時最上家の従順しましたが、
その後庄内は最上氏・上杉氏のよって争われ、
1588年、上杉景勝家臣本庄繁長は侵攻を進め、
十五里ヶ原合戦で最上連合軍を破り、
来次氏は上杉家に臣従し、
以後は上杉氏に従う事となりました。
観音寺城南側にあります飛澤神社は、
平安時代前期の871年に
鳥海山大噴火により
その神霊を鎮め奉るために
天降堂を創建したのが始まりと伝えられ、
来次氏代々の崇敬厚く信仰された神社です。
見龍山円通寺
上杉氏は庄内地方把握後検地を行うと、
観音寺城には寺尾伝左衛門をおいて
反対一揆に備えておりましたが、
一揆勢に攻め立てられ討死しました。
南下した景勝の軍勢に破られて四散し、
以来観音寺城が廃城となった説と、
来次氏がそのまま統治を行ったが、
1600年、関ヶ原の合戦後、
来次氏は観音寺城を明け渡し
上杉氏の元に去り、
米沢移封に同行したとされています。
その後1615年に枝城廃止令によって
観音寺城が取り壊されたと伝えられています。
観音寺が円通寺の前身であるとされ、
来次氏の菩提所となり観音寺城の裏城門は
そのまま山門として使用されており、
観音寺城における唯一残された史跡です
観音寺城の麓
現在東側のお城の麓には
史跡を説明する案内板と、
天降神社の祠が建立されており
ここから城道が続いていますが
現在城までの道は私有地となっており
散策することは不可能となっています。
お城の遺構を直接確認する事は出来ませんが
周辺には多くの関連史跡が残されており、
酒田市指定史跡に登録されています。
酒田市八幡エリアにお越しの際は
観音寺城の歴史や史跡に触れてみてください。
こちらが観音寺城と周辺史跡です。
酒田市・遊佐町
城郭・山城・館跡
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