どーもKABUOです。
山形県庄内地方の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました。
今回は飽海郡遊佐町の
歴史と史跡をブログにまとめました。
前回の古代~中世の時代の
歴史と史跡を紹介した記事はこちらです。
今回は南北朝時代に北朝・南朝との争いや
戦国時代最上義光の時代、
十六羅漢岩や北海の漁業王旧青山底等の
歴史や史跡をご紹介します
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遊佐町の歴史と史跡をご紹介!(戦国~近世近代編🏞️)
吹浦大物忌神社
南北朝時代、
鎌倉幕府の滅亡後建武の新政がはじまったが
新政はまもなくくずれ南北朝の動乱となった。
南朝方の活躍は庄内地方で盛んに行われ、
国司の葉室光世や中院具信らは
藤島城に拠って活躍したが城が落ちると
庄内武士もほとんど北朝方に降った。
1347年、北畠顕信は守永親王を奉じて
出和国に入り立谷沢城に立て籠り
一時陸奥の多賀城を奪還し
鎌倉に向かう勢いをみせたほどであったが
足利政権の内紛が解決すると形成不利となり、
1356年、藤島城は落城し庄内地方における
動乱は終息していくのでありました。
こちらの吹浦大物忌神社
先程紹介した蕨岡大物忌神社同様、
鳥海山の登山口として
修験の道場として栄えた歴史を持ち、
1358年、北畠顕信は
南朝の復興と出羽国静謐を祈り
由利郡小石郷乙女村(現秋田県)を
ささげる文章が残されており、
北畠顕信寄進状として
国指定文化財古文書に登録されています。
吹浦大物忌神社の歴史と史跡を
ご紹介した記事はこちらです
永泉寺
石造九重層塔
戦国時代
尾浦城主武藤義氏は
上杉謙信の威令のもとに庄内地方を統一、
さらに村山郡や由利・仙北郡(秋田県)などの
四隣に武力進出を企てたが
その武断政治は国侍らに
苛酷な負担を強いたため悪屋形と嫌われ
1583年、庄内の国人の反乱にあい
尾浦城で自刃します。
庄内地方は山形城主最上義光が一時治めたが
上景勝配下本庄繁長が庄内を攻め
十五里ヶ原の戦いで最上勢を破り
庄内地方は上杉氏の領土へと編入されますが、
1600年の関ヶ原の戦い後、
上杉氏は米沢へと転封の処分を受け、
徳川家康に味方した義光に
再び庄内地方を与えられる事となりました。
こちらの永泉寺は1382年に源翁が
白狐の導きによって開山したと伝えれており
境内にあります石造九重層塔は
最上義光家臣志村光安の供養塔として建立、
県指定文化財として登録されています。
三崎峠
豊間源之進の墓
近世の時代、
山形藩を立藩した最上義光は領国経営を行い
庄内平野の開拓が行われましたが義光の死後、
家臣団の内紛によるお家騒動によって
1622年、最上家は改易の処分を受け
庄内地方にに酒井忠勝が入部し庄内藩を立藩、
以後幕末まで庄内藩によって
遊佐町全域は統治される事となりました。
庄内地方と秋田県を結ぶ羽州浜街道。
秋田県久保田城下から酒田・鶴岡へをて
新潟まで結ぶ古代から重要視され、
遊佐町吹浦には宿場町が設けられていました。
1689年、酒田から秋田県象潟を目指す
俳人松尾芭蕉一行は激しい雨に遭い
吹浦宿で一泊し三崎峠を越え
遊佐町を往来したの記録が残されています。
また幕末戊辰戦争では国境を守る庄内藩と
新政府軍側に味方した秋田藩とで
三崎峠付近で激しい戦闘が行われ
秋田藩士豊間源之進が戦死、
近くには豊間源之進の墓が建立されています。
十六羅漢岩
海禅寺
近現代の時代
吹浦にあります海禅寺21代寛海和尚が
日本海の荒波で命を失った漁師諸霊の供養と
海上安全を願って造佛を発願し、
1864年に自身は付近から
酒田まで托鉢をしながら
地元の石工たちを指揮、5年の年月をかけて
明治元年22体の磨崖仏を完工しました
(遊佐鳥海観光協会引用)
十六羅漢岩まではサンセット十六羅漢に
駐車して向かうことが可能。
海沿いを眺めなら羅漢像を鑑賞することができ
毎年7月下旬には十六羅漢まつりが開催され
夜間にはライトアップが行われ見応えがあります。
旧青山本邸
遊佐町青塚出身の青山留吉は漁夫として
1859年1月蝦夷地に渡りニシン漁で大成し、
北海の漁業王と言われるようになりました。
留吉は1887年に郷理の青塚に本邸を建て
通称ニシン御殿と言われており、
国指定重要文化財に登録されており
一般公開されています。
丸池様
牛渡川
現在遊佐町では景観に恵まれていることから
鳥海登山や吹浦海岸などの海水浴客で賑わい、
鳥海山や鳥海修験に関連する歴史や史跡は
国指定史跡に登録されているなど
豊かな自然や深い歴史が多くある
人気観光スポットです。
山形県庄内地方にお越しの際は
遊佐町にぜひ観光に訪れてみてください
以上遊佐町の歴史と史跡のご紹介でした
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