どーもKABUOです。
山形県庄内地方の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました。
今回は飽海郡遊佐町の
歴史と史跡をブログにまとめました。
吹浦石器時代遺跡や小山崎遺跡、
鳥海山修験で繁栄を極めた
蕨岡大物忌神社や杉沢熊野神社、
古代より秋田県を結ぶ宿駅が設けられた
大楯遺跡等原始から古代・中世の時代まで
歴史と史跡をご紹介します。
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遊佐町の歴史と史跡をご紹介!(原始・中世の時代編🏞️)
遊佐駅
遊佐町役場
山形県飽海郡遊佐町。
北東部には標高2237mの鳥海山が聳え立ち、
鳥海山を源流とする月光川が日本海まで流れ
四季折々の景観を見せる自然豊かな場所です。
その歴史ですが1889年、
町村制施行に伴い飽海郡遊佐町村、
白井新田村・野沢村・吉出村・小田原村が
合併し遊佐村が発足しその後遊佐町と改称、
1954年、稲川村・西遊佐村・蕨岡村・
高瀬村・吹浦村と合併が行われ
新政遊佐町が発足し現在に至ります。
遊佐町の町名の由来です が
「ゆさ」とは「揺さぶるの」のユサで、
風が強く海岸などの
砂や林が揺さぶられることから
「ゆざ」という地名が名付けられ
平安期の遊佐駅や遊佐荘、
江戸期における遊佐郷の中心地だったことから
遊佐町という町名が名付けられました。
吹浦石器時代遺跡
小山崎遺跡
原始の時代
原始時代の遺跡の大部分は
鳥海山麗に沿って多く分布しています。
こちらの吹浦石器時代遺跡は、
竪穴住居跡50軒と土坑墓341基などが発見され
縄文時代・平安時代にかけての
複合遺跡だと考えられており、
山形県指定史跡に登録されています。
小山崎遺跡は
縄文時代中期末から後期頃の遺跡だとされ
古くから鳥海山信仰との
関わりがあったと考えられており
鳥海山と共に国指定史跡に登録されています。
蕨岡大物忌神社
古代の時代
564年鳥海山の山頂に大物忌神社が
祀られたとされる伝承が残されています。
四季の祭祀などを常に
山頂で行うのは困難なため蕨岡口之宮と
吹浦口之宮で行われるようになり、
その後鳥海修験の中心地として繁栄します。
また吹浦口之宮の祭祀は古く、
大同年間(806-10)大物忌神と合わせ
田川郡月山から「月山」の両神を鎮座し、
838年に正5位、864年に正四位になった。
大物忌神社は出羽国の開拓にあたり
北辺の蝦夷から国家を鎮護する
守護神として祀られたとされています。
蕨岡大物忌神社は
鳥海山の登山口であったため
多くの宿坊が並び修験者が集まり
修行が行われた歴史があります。
蕨岡大物忌神社の
歴史と史跡を紹介した記事はこちらです。
杉沢熊野神社
こちらの杉沢熊野神社は鳥海山へと登頂する
蕨岡口からの登山道1合目にあたる場所で
蕨岡程ではありませんが宿坊も2坊設けられ
鳥海修験の重要な根拠地でありました。
毎年8月6日に奉納される杉沢比山の舞いは
国重要無形民族文化財として登録されています
大楯遺跡
中世の時代、
平安時代の頃より遊佐町一帯は遊佐荘と呼ばれ
奥州藤原氏によって管理統治されていました。
鎌倉期の歴史は不明な点が多いが、
「吾妻鏡」の記載された記録によると
奥州合戦により奥州藤原氏は滅亡、
降人として源頼朝の陣に参じたと見える
藤原氏の一族樋爪太郎俊衡の子
河北冠者忠衡は遊佐町小原田大楯に居住し、
遊佐郡司として頼朝の本領安堵を受け
遊佐氏の祖となった伝承が残されており、
現在の酒田市方面まで勢力を広げた
遊佐繁元は河北冠者の末裔とされています。
遊佐氏はその後庄内地方一帯を掌握する
武藤氏(大宝寺氏)との争いに破れ
遊佐氏は滅びました。
遊佐町小原田にあります大楯は
古代より秋田県を結ぶ宿駅が設けられた
交通の要所だったとされる場所で
地区にあります大楯遺跡は
平安・鎌倉時代には政治・文化の拠点として
整備・発展したと考えられており
遊佐町指定史跡に登録されています。
以上遊佐町の歴史と史跡、
原始~中世の時代編のご紹介でした。
次回は戦国時代から近現代までの
歴史をご紹介します
戦国時代・江戸時代・近現代の
歴史と史跡を紹介した記事はこちらです。
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