どーもKABUOです。
山形県庄内地方の歴史と史跡を巡る
旅に行ってきました。
今回は鳥海山修験で栄えた
遊佐町にあります吹浦大物忌神社の
歴史と史跡をご紹介します。
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吹浦大物忌神社の歴史と史跡をご紹介!⛩️
吹浦大物忌神社一ノ鳥居
山形県遊佐町吹浦。地名の由来は
川や海に近い袋状の土地という意味があり
古代から鳥海山登山口の一つであった為、
鳥海修験の修験場として栄えた歴史や
秋田県久保田城から日本海側を通り、
酒田・鶴岡を通る羽州浜街道の
宿場町として多くの人々が往来しました。
吹浦大物忌神社は吹浦駅から徒歩5分程、
吹浦大物忌神社に到着出来ます。
下拝殿
古代の頃より噴火を繰り返す鳥海山に
当時の当時の大和朝廷の人々は
自然への畏怖や蝦夷反乱の凶兆と捉え
国家鎮守と蝦夷の怒りを静める目的として
564年に鳥海山山頂に神社が創建された後、
鳥海山の参詣に不便なため、
806年、大物忌神を山麓の吹浦に遷したと
伝承に残されています。
摂社として月読命を
祭神とする月山神社があり、
鳥海月山雨所宮とも称されてます。
その起源については諸説ありますが、
元慶の乱の時、鎮定祈願のため
両神を国府近くの吹浦に並べ祀ったとれる説が
有力視されています。
また時の権力者からも崇敬厚く、
社伝では後三年の役の際、
源義家が戦勝祈願を行い、
中世には鎌倉幕府も重要視したようで
1220年、「北目地頭新留守殿」あてに
出羽国両所宮の修造を早く
完遂するように命じている。
南北朝内乱の時も北畠親房の子顕信が
南朝方の勢力回復を祈って
由利郡小石郷乙友村(秋田県)を捧げる旨とする
寄進状を本社に奉っている。
吹浦大物忌神社に奉納されています、
鎌倉幕府奉行人連署奉書、北畠顕信寄進状は
鳥海山大物忌神社文書として
国指定文化財に登録されています。
社務所
時代が進むにつれ神仏習合が進み、
「両所大菩薩」の尊称が奉られ、
「出和国一の宮」と在住民から尊崇され、
境内域に神宮寺がおかれ本明坊を始めとする
修験25坊が活動が行われました。
中世・神仏混清以来鳥海山大権現として
薬師如来と阿弥陀如来が祀られ
社僧の奉仕することなりますが、
明治時代初期の神仏分離令により
両如来像は吹浦女鹿の松葉寺に移され
大物忌神社となり現在に至ります。
吹浦口ノ宮本殿
摂社月山神社
下拝殿から階段を登ると拝殿に到着。
拝殿の後ろには赤い社殿が特徴的な
吹浦口ノ宮本殿と摂社月山神社本殿が並び
1706年、正月の火災で焼失した際、
1711年、庄内藩主酒井家によって
現本殿が再建したと伝わっており
国指定有形文化財に登録されています。
国道7号線沿いからも程近くアクセス良好、
鳥海山修験の歴史を学ぶことが出来ますので
吹浦大物忌神社にぜひ参拝に訪れてみてください。
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こちらが拝殿の場所です。
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