どーもKABUOです
山形県村山市の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました。
今回は村山市富並にありますお城跡、
富並城の歴史と史跡の様子を
ご紹介します
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富並城(鬼甲城)の歴史と史跡をご紹介!🏯
村山市富並楯山に築城された富並城。
別名鬼甲城とも呼ばれており
標高187m(比高70m)の
丘陵に築かれた連郭式の山城、
北側は急な崖が続き
その下を富並川が城を囲むように流れ、
南には最上川三難所の一つ
「隼」と呼ばれる岩礁が覆う急流が流れ
自然の地形を巧みに利用した
天然の要害を形成しています。
アクセスですが国道347号線沿いを進み
村山市富並地区へと向かいます。
途中「鬼甲城」と書かれた
案内板がありますのでそこから曲がり
お墓がある道沿いを進むと
車1台~2台は停車できる駐車場に到着。
(山形県中世城館遺跡調査報告書画像引用)
丘陵の頂上に本丸があり
南方に二の丸、さらに南方に三の丸が置かれ
東・西・南の三面は良く腰郭が発達、
各郭の間には約8m・底幅4mの
大規模な空壕が残されており
本丸は東西42m・南北40mの規模があります
こちら富並城の城郭図です。
周囲を河川で囲まれた台地に
築城された事が良くわかります。
駐車場から東側には道が整備され
本丸まで向かうことができ、
駐車場付近は開墾され農地となっており
道沿い以外は雑草が伸び放題ですが
所々曲輪だと思われる平地が確認出来ます。
その歴史ですが平安後期に
落浜入道大林政国によって築城され
源頼義によって攻め滅ぼされたとの
伝承が残されています。
この伝承から当時の時代背景読み解きますと
当時岩手・秋田を中心に
豪族安部氏が豊富に採掘される金を背景に
軍事・経済共に力強い勢力を誇り
当時政治の中心は京都の朝廷にあり
朝廷側からすれば
東北は辺境な場所との認識がされ
偏見の目を傾けていた時代でもありました。
本丸には鬼甲城と書かれた石碑の他に
城主落浜入道大林政国と一族を供養する
供養塔が建立されています。
本丸から少し南側には
表門石垣跡と書かれた看板が。
周辺を見渡すとこのような石垣跡が
残されていました。
ここから城の入り口を探そうかと思いましたが
ここから道沿いは藪が生い茂り、
城の入り口は発見できませんでしたが
城南側から西側にかけて
虎口があったと思われます。
富並城南側からの撮影、
お城に関係があるか不明ですが
山王神社が建立されており、
周辺は田畑となっています。
城西側の様子、
西側にも富並川が流れ
深い渓谷を形成していました。
こちらは北側の富並川と
城から数メートル離れた
南側を流れる最上川の様子。
北側は河川が流れているうえ断崖に面し、
南側の最上川の激流が流れ敵は攻めにくく、
そうとう堅固に築城された事がよくわかります
そんな中朝廷と安部氏の間で摩擦が生じ
1051年、朝廷の命を受けた藤原登任は
多賀城府より出兵し安部氏と戦いますが敗北、
その後登任は解任され
後任に源頼義が鎮府将軍に任命され
安部氏討伐を実行。
一般的に前九年の役と
呼ばれている戦いですが、
落浜入道大林は何らかの形で
安部氏と友好的な関係を持っており
源頼義と八幡太郎義家親子の
大軍相手に奮戦したと考えられます。
こちらの富並八幡神社には
落浜入道大林政国を討ち滅ぼした
戦勝記念に源頼義が植林したと伝えられる
頼義スギが残されています。
その後の歴史は不明ですが
戦国期に数度の拡張・整備が行われており
慶長年間(1596-1615年)に
最上義光家臣富並彦一郎が
3000石で居城した記録が残されており
元和年間(1615-1622年)に
廃城となったと思われ、
1622年、最上家の改易後は富並彦一郎は
陸奥仙台藩伊達氏の家臣となりました。
こちらの向陽寺は慶長年間、
富並城の鬼門にあたるところに
城主の菩提所として創建されたと伝えられ、
おそらくは富並彦一郎が創建に
携わっていたのではないかと推測されます。
地味なお城で村山市民ですら
その歴史を知らない方も多いと思いますが
遺構がしっかりと残されており、
自然の地形をを利用して築城された
富並城はとても見応えがありましたので
ぜひ史跡観光巡りにお越しください。
以上富並城(鬼甲城)の歴史と史跡の
ご紹介でした。
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