どーもKABUOです。
山形県尾花沢市の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました。
今回は「奥の細道」で有名な
俳人松尾芭蕉も通った山刀伐峠の
歴史と史跡をご紹介します。
スポンサーリンク
山刀伐峠の歴史とをご紹介!⛰️
尾花沢市と最上町結ぶ山刀伐峠
尾花沢市から丹生川に沿って北東に進み
金山と大森山の間を標高510mで越え
最上小国川沿いの赤倉を結び
古来より山形と岩手・宮城を結ぶ
街道として利用されました。
山刀伐峠の名前の由来ですが
遠望すると峠付近の形状が
猟師がかぶる頭巾「なたぎり」に
似ていることが由来となっています。
山刀伐峠は尾花沢市方面・最上町方面から
アクセスが可能となっており
今回は松尾芭蕉にならい最上町方面から
史跡調査を行いました。
1580年、山形城主最上義光は
天童城を攻め落とし村山の覇権を握ると、
天童氏と同盟を結んでおりました
小国城主細川直元を攻めるため
山刀伐峠から進軍を行い、
赤倉温泉近くの万騎ヶ原で両軍は激突、
直元は懸命に戦いましたが
力及ばず討死すると小国城周辺は
義光の領地に組み入れられました。
赤倉から峠までは急勾配の坂を
当時二十二曲りとも呼ばれ
車道が整備されていますが
道は狭く車がやっと一台走れる位です。
逆に尾花沢方面の方が道幅が広いですので
アクセスは尾花沢からをおすすめします。
小国城の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです。
江戸時代に入りますと
山形藩と新庄藩が立藩され
尾花沢市富沢・最上町満沢に番所が設置され
行き交う往来の取り締まりが行われましたが
しかし山刀伐峠その険しさから
主に背坂峠の脇道として利用され
主に出羽三山詣や最上町特産でありました
小国駒の輸送が行われていたそうです。
峠の頂上付近に到着。
公衆トイレも整備され
車も駐車する事が可能、
ここから峠の頂上までは
ブナ林を抜けて歩いていきます。
1689年、堺田の封人の家から出発した
松尾芭蕉・曽良一行は
屈強な若者に案内人にし
奥の細道の最大の難所と呼ばれた
山刀伐峠を越え
尾花沢の紅花商人鈴木清風を訪ね、
10日間ものあいだ尾花沢に長く滞在し
地元の俳人と多くの交流を重ねました。
この時芭蕉は山刀伐峠について
「高山森々として一鳥声聞かず木の下
闇茂り合ひて夜行くがごとし」と
記しています。
こちらが山刀伐峠の頂上の様子。
頂上には舟形の猿羽根地蔵と兄弟と言われる
子宝地蔵と子持ち杉の他に、
山刀伐峠越顕彰碑が立てられており
付近には東屋も設置されゆっくりとした
時間を楽しむ事ができます。
その後山刀伐峠は
1932年に自動車道として改修され
現在の車道はその時に整備された物で
1977年、山刀伐峠トンネルが開通し
尾花沢・最上町を容易に
往来する事が可能となり
旧車道沿いは一時廃れましたが
昭和50年後半から
歴史的文化価値が認められ
国と県の補助のもと遊歩道が整備されると
1996年には文化庁の
「歴史の道百選」にも
選定される事となりました。
こちらの写真は尾花沢側にあります
旧大平集落跡になります。
大平集落跡から少し進み
尾花沢側の山刀伐峠の出入り口に到着。
今回は車道を中心に進みましたが
峠の旧道もしっかりと残されており
史跡もよく整備され見ごたえがありました。
尾花沢市・最上町にお越しの際は
ぜひ山刀伐峠に訪れてみて下さい
こちらが史跡の場所です。
スポンサーリンク