どーもKABUOです。
山形県庄内地方の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました。
今回は鶴岡市にあります中世の城跡、
小国城の歴史と史跡をご紹介します。
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小国城の歴史と史跡をご紹介!🏯
小国城跡上り口
鶴岡市小国にあります小国城。
庄内小国川左岸の丘陵上に立地、
羽越国境と主要街道を守る境目の城として
標高349mの楯山に築城・整備された
連郭式の山城跡になります
山間に囲まれた鶴岡市小国ですが
海沿いを通る羽州浜街道が
開拓される近世以前、
新潟と庄内を結ぶ主要街道であった事から
要衝を押さえる場所としてこの地に
築城されたと考えられています。
三の丸跡
頂上には本丸があり周囲は土塁で囲まれ
本丸北側には一段下がって中屋敷、
さらに一段下がって下屋敷が置かれた。
本丸の南側には深い塹壕が掘られ、
その南に西屋敷の平坦地があり
中屋敷を二の丸、下屋敷を三の丸
西屋敷を四十二軒屋敷と呼んでいる。
きわめて急な東西の両斜面は
天然の要害を形成し、
規模は本丸東西27m・南北30m
二の丸東西23m・南北34m
三の丸東西16m・南北20mと
現在も城跡はよく残り
土塁・空壕なども確認出来きます。
駐車場も完備されており車も駐車が可能、
本丸までの散策路も整備されていますが、
急勾配で足元の悪いところもありますので
しっかりとした靴の着用、
暑さ対策に飲み物を持参する事を
おすすめします。
二の丸跡
その歴史ですが築城年代は不明であるが
南北朝の動乱の時代、
庄内地方でも両派分かれて戦われていた頃
小国城には小国政光が在城
鶴岡市小国一帯を統治を行いました。
政光は藤島城(鶴岡市藤島)を拠点に
南朝方として活躍した北畠顕信と提携し
武藤氏を中心とする北朝勢力と戦いましたが
動乱は北朝方が有利に戦いを進め
その後小国城は武藤氏に接収されとると
1537年~1578年まで城主であった
城主であった小国因幡守は500石を領し
本格的な城館として整備が行われ
以後支城として使用される事となります。
本丸跡
戦国期に入りますと武藤氏の勢力は衰退し
1568年、越後の上杉謙信に屈服したが
武藤義氏は謙信の庇護のもと庄内を統一し、
最上・秋田県由利・仙北地方にも進出したが
山形城主最上義光と内通を図った
前森蔵人ら国人一揆の奇襲を受け自刃した。
武藤氏の家督は義氏の弟義興が継いだ
義興は最上氏や与する東禅寺城主
東禅寺義長(前森蔵人)に対抗するために
小国城主小国彦次郎を仲介に上杉景勝の武将、
越後村上城主本庄繁長の次男義勝を養子に迎え
越後との連携を強めた。
しかし1587年、最上義光と東禅寺義長は
居城尾浦城を攻め立て義興は討死、
義勝は越後に逃げ帰った際
小国城に立ち寄ったととされています。
本丸から見える小国地区
こうして庄内は一時最上氏の手中に帰したが
1588年、本庄繁長は上杉景勝の後援の下、
義勝を伴い数千の大軍を率いて
小国口から庄内に侵攻をした。
この時「奥羽永慶軍記」によれば
小国城将小池五郎左衛門が、
繁長の小国到着前に功名を立てようと
最上庄内軍の拠点蕨野城を奇襲奪取した
蕨野の戦いが起きている。
その後戦いは上杉勢の大勝に終わり
庄内地方は上杉景勝の統治下に置かれました。
小国関所跡
1600年、関ヶ原の合戦後、
最上義光は戦功が認められ庄内を含む
57万石を与えられ山形藩を立藩、
小国城には有沢能登守・遠藤大隅守が
在城したと言われています。
1622年、最上家臣団の内紛により
最上家の改易を命じられる事と伴い廃城、
酒井忠勝が入部し庄内藩が立藩されと
新潟と庄内の国境の押さえとして
関所を設け町割りを行い小国地区は
宿場町として栄える事となりました。
小国地区の町並み
現在小国城は歩道が整備され
山形県内の城跡の中では最大の高低差があり
庄内地方を代表する山城跡として
国指定重要史跡に登録されています
山形県鶴岡市の観光の際は
ぜひ小国城に訪れてみてください
以上小国城の歴史と史跡のご紹介でした。
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