どーもKABUOです。
山形県庄内地方の歴史と史跡を巡る
旅に行ってきました。
鶴岡市旧羽黒町を中心に
1部・2部に分けて歴史をご紹介します。
前回の記事はこちらです。
今回は羽黒エリアにあります
最上軍と上杉軍が争った黒瀬川古戦場跡
羽黒修験で栄えた手向地区の歴史や
庄内藩士によって開墾された松ヶ岡開墾場等、
戦国時代から近代にかけての
歴史や史跡をご紹介します。
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鶴岡市の歴史と史跡をご紹介!(羽黒エリア戦国~近現代編)⛩️
黒瀬川古戦場跡
戦国時代
藤島城主土佐林氏は藤島にあった
羽黒山の学頭宮目寺の衆徒出といわれる豪族で
古名は三山社務と名乗り初めは羽黒山の
俗別当として山務にかかわっており
1445年、土佐林氏光が
羽黒山本堂の修造を行うなど
影響力を持っておりましたが、
寛正年間(1460年〜66年)
大宝寺城を拠点とする武藤淳氏の
勢力にに屈指その被官することとなると
羽黒山別当職の地位を武藤氏が握り
以後羽黒一山を支配する事に至ります。
その後武藤氏は数代にわたり別当職を帯び
羽黒山の影響力を背景に勢力を広げましたが
1587年、最上義光に加担した
酒田の東禅寺氏ら国人によって討たれると
一時庄内は最上氏の勢力下に置かれましたが
しかし1588年、 武藤氏と縁戚にあった
越後村上城主本庄繁長は十五里ヶ原の戦いで
最上勢を破ると庄内地方は
上杉家の統治下に置かれる事となりました
こちらの黒瀬川古戦場は
十五里ヶ原の合戦で破れた最上軍が
この地に陣を引き本庄勢相手に奮戦しましたが
大敗を喫した歴史に残る古戦場です。
羽黒町手向
近世の時代
1600年、関ケ原の合戦後、
東軍に組みした最上義光は戦功が認められ
秋田県南部・庄内地方を含む
57万石の領有が与えられ山形藩を立藩。
荒沢不動堂や羽黒山五重塔の修復を行うなど
戦国時代より戦火に包まれた羽黒山も
義光の積極的な寺社保護策によって
ようやく息を吹き返す事となります。
しかし1622年、
最上家のお家騒動により改易を命じられると、
庄内は酒井忠勝の所領となり庄内藩を立藩。
しばし三山境界をめぐって
羽黒山と対立する事もあったそうです。
江戸時代中期の頃より庶民の間でも
出羽三山参詣が流行。
羽黒町手向には多くに宿坊が形成され
1689年には俳人松尾芭蕉も
最上川を下って清川(庄内町)から
手向宿に至り出羽三山に
来訪した記録が残されています。
松ヶ岡開墾場
近現代・明治時代
戊辰戦争の発生に伴い庄内藩では
羽黒修験の離反をおそれ手向村民で
農兵隊を組織して庄内軍に編入する事とした。
しかし明治元年9月庄内藩の降伏によって
羽黒山の社領も新政府の支配下に
置かれる事となった。
また明治元年から全国に布達された
神仏分離令は戊辰戦争の終結とともに
羽黒山に通達が行われました。
天台宗総本山の延暦寺から仏道を
廃止するものではないとの一宗布告が届いた。
この事から神仏分離政策に対し
強い拒絶反応や反発が相次ぎましたが、
明治政府により分離政策は徹底的に行われ
羽黒山は出羽神社と改称、
多くの寺院の破壊や仏像の焼却が行われる等、
厳しい弾圧を受ける事となりました。
こちらの松ヶ岡開墾場は
旧庄内藩士達によって開墾され、
養蚕施設が建造される等
庄内地方の経済発展に貢献した歴史があり
国指定史跡に登録されています。
松ヶ岡開墾場の歴史と史跡を
詳しく記載した記事はこちらです。
羽黒山五重塔
現在鶴岡市羽黒エリアでは、
山岳信仰の霊場として信仰を集めた
羽黒山を中心とした観光ツーリズムが
盛んに行われており、
羽黒山五重塔や出羽神社、
月山登山に手向の宿坊で頂く精進料理等
国内屈指のパワースポットとして
高い人気を誇っています。
庄内地方観光の際は
ぜひ羽黒エリアにお越しください
以上鶴岡市羽黒エリアの
歴史と史跡のご紹介でした。
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こちらが史跡のアクセス場所です。
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