どーもKABUOです。
山形県庄内地方の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました。
今回は明治維新後庄内藩士たちが開拓した
松ヶ岡開墾場に訪れましたので
その歴史や施設の様子をご紹介します。
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松ヶ岡開墾場の歴史と史跡をご紹介!
開館時間 9時〜16時
(施設により多少違いはあり)
鶴岡市羽黒町松ケ岡にあります
松ヶ岡開墾場。その歴史ですが
1870年、戊辰戦争後、
廃藩置県により庄内藩は廃止され
鶴岡県・後に酒田県が発足、
明治政府による一連の改革により
多くの士族が職を失い生活が逼迫するなか
酒田県は旧庄内藩士らへの財政支出に苦しみ、
生活苦にあえぐ士族の救済のための方策として
大規模な開墾事業を計画を行い
ここに旧藩士を投入して経済的自立を
図ろうとしました。
県は当時荒れ地でありました
後田山の広大な山林に着目すると、
県幹部でありました旧庄内藩出身の
松平親懐と菅実秀が開墾指導にあたり
1872年、旧藩士ら3000人が参加、
刀を鍬に換えて後田林106ha、
翌1873年には高寺山・馬渡山
漆原山・黒川山の204haを開墾します。
しかしその事業は非常に苦労と困難を伴い、
藩士の中には途中から脱落するものも
少なくありませんでした。
こちらの建物は
開墾士たちが生活していた住宅を
1986年に移築・復元した建物です。
幕末、庄内藩のもと
江戸市中取締の任に当たっていた
新微組は鶴岡に移り戊辰戦争に参戦しました。
藩は1870年、新微組に137棟の住まいを
城下に与えその一体は新微屋敷と呼ばれ、
そのうちの約30棟が1875年、
松ヶ岡に移築され開墾士の住宅として
使用された歴史を持ち、
鶴岡市指定有形文化財に登録されています。
開墾事業の中心地でありました経塚丘には
庄内藩江戸屋敷から遷座した稲荷神社を祀り、
鶴岡市藤島にありました旧本陣を移築し
管理事務所兼幹部集会所として使用されます。
旧藩主酒井忠発がこの地を訪れた際、
旧藩士の苦労をねぎらい松ケ岡の名称も
忠発が命名を行いました。
その後1877年まで
鶴岡町民や酒田本間家からの資金援助もあり
300ヘクタール以上の桑園が造園、
養蚕施設として大蚕室10棟が
建設されましたが、
輸出面で蚕種が花形だった時代が過ぎ去り、
県や新政府の援助にもかかわらず
開墾地の経営は行き詰まり
入植した士族は依然生活苦に追われ
一定の安定をみるのは大正年間以降
開拓地内での水田への転換が行われ
稲作栽培が行われるようになってからでした。
こちらの松ヶ岡本陣は
熊本藩改易後庄内藩預かりの身となった
加藤忠広が丸岡藩立藩後、
屋敷として使用された歴史的にも価値がある
建物になります。
丸岡藩の歴史や史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです。
現在松ヶ丘開墾場では
10棟ありました建物の内、
5棟が現在も残されており
それぞれ松ヶ岡開墾記念館、
松ヶ岡窯陶芸教室・ギャラリーまつ
くらふと松ヶ岡「こうでぃらいふ」
庄内農具館、庄内映画村資料館として
開墾の歴史や庄内藩と戊辰戦争の歴史が学べ
喫茶カフェでは軽食が楽しめる等
観光にも充実しており
国指定史跡に登録されています。
山形県庄内地方に観光のお越しの際は
ぜひ松ヶ岡開墾場にぜひ来館してみてください
以上松ヶ岡開墾場の歴史と史跡のご紹介でした。
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