どーもKABUOです。
山形県庄内地方の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました。
今回は鶴岡市にありますお城跡、
丸岡城に行ってきましたので
お城の史跡の様子や歴史をご紹介します。
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丸岡城の歴史と史跡をご紹介!
丸岡城跡公園
鶴岡市丸岡にあります丸岡城跡、
金峰山東麓の平野部に立地し
標高30mの平地に築かれた
単郭方形式の平城になります。
土塁が囲みその周囲を水濠が囲んでおり、
東に大手門その東方町屋が
配置されていました。
御城稲荷
丸岡城土塁跡
その歴史ですが戦国初期、
庄内と内陸部を結ぶ
六十里越街道沿いの押さえの要地として
大宝寺氏(武藤氏)家臣押切備前守が
築城したと伝えられています。
その後備前守が三川町横山城に移り、
後に大宝寺17代当主義氏の弟義興が
丸岡兵庫義興を称して丸岡城へ居城しました、
御居間跡
お庭の泉水跡
1583年、最上義光と内通しておりました
大宝寺家臣前森蔵人による謀反を受け
義氏は自刃したため義興は家督を継ぎ
大宝寺氏の居城であった尾浦城へと移り住み
丸岡城には城代が置かれたと思われます。
しかしその後義光と戦いで大宝寺氏は滅亡、
庄内地方一帯は上杉氏・最上氏へと
領主が変わり統治されましたが
1615年、一国一城令により
取り壊され破却される事なりました。
天澤寺
加藤清正墓碑(清正閣)
1622年、最上家の改易によって
酒井忠勝が庄内地方に入部し庄内藩を立藩。
1632年、熊本藩主加藤忠広が改易、
この改易には家臣団を統率できなかった説や
豊臣恩顧の有力大名であり
豊臣氏と血縁関係にあったため
幕府に警戒され手頃な理由をつけられて
取り潰されたという説があります。
改易後忠宏は庄内藩にお預けとなると
領地1万石を宛行われ
1代限りを条件に丸岡藩を立藩しました。
丸岡城跡に隣接している天澤寺は、
丸岡に配流された忠宏と母正応院は
父加藤清正の遺骨を密かに持ち出して
埋葬されたと伝えられています。
金照山本住寺
加藤清正夫人
忠宏母子の墓
丸岡城跡に忠宏の居館が建てられ
没するまで22年間居住します。
1653年、忠宏の死去に伴い丸岡藩は廃藩。
館は取り壊され丸岡領は
幕府領および庄内藩領となりました。
鶴岡市三光町にあります金照山本住寺は
加藤忠広および母正応院の墓があり
鶴岡市指定史跡に登録されています。
猛将加藤清正の子供として
熊本藩時代は50万石を有し、
名城熊本城を居城していた時代から
いきなり東北鶴岡藩に預けられる身となった
加藤忠宏はさぞかし無念だった事でしょう。
丸岡城跡案内所
水堀跡
現在丸岡城跡は発掘調査を経て
堀や水路、土塁などを復元、
加藤清正墓碑とともに県指定史跡に登録され
史跡公園として整備されています。
鶴岡市に観光にお越しの際は
ぜひ丸岡城跡に訪れてみてください
以上丸岡城の歴史と史跡のご紹介でした。
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