どーもKABUOです。
山形県庄内地方の歴史と史跡を巡る
旅に行ってきました。
今回は庄内町余目にありました城跡
余目館と館主安保氏の歴史と史跡を
ご紹介します。
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余目館の歴史と史跡をご紹介!
乗慶寺
庄内町余目にあります乗慶寺。
庄内三十三観音霊場14番札所でもあり
インパール作戦で師団の独断退去を行い、
1万数千人の部下の命を救った佐藤中将の
功績を讃えた佐藤幸徳中将追慕の碑が
境内にあります歴史の古いお寺です。
乗慶寺境内はその昔、
中世の城跡余目館があった場所で
館主安保氏の菩提寺になります。
余目館は別名余目城とも呼ばれ、
標高9mの平地に築かれた単城式の平城、
東西100m・南北150mで
現在でも南側と西側に空濠が残っています
乗慶寺本堂
築城の歴史ですが南北朝時代の
正平年間に安保忠実(直実)により
築城されたと伝えられていおり
安保忠実は足利尊氏の側近として支えた
高師直の家臣だとされています。
安保氏は武蔵七党の一つ丹党の一族で
代々源氏・北条氏・足利氏などの
武将に仕えて武功を立てその所領は
全国に散在し余目も含まれていた。
安保氏は余目館を築城すると
以後16代にわたり余目の地を治めましたが、
1575年、安保能形が病死すると
庄内地方で勢力を伸ばしておりました
尾浦城主武藤義氏(大宝寺義氏)が
余目に攻め寄せ安保氏は滅亡しました。
その後余目館には武藤氏家臣梅木氏が
相続したとされています。
余目八幡神社
その後武藤氏が滅亡すると
上杉氏・最上氏が庄内地方を掌握、
庄内町清川から酒田市までの
中継拠点として重要視されましたが
1615年、一国一城令によって廃城。
1622年、最上家の改易によって
庄内地方に酒井忠勝が入部し庄内藩を立藩。
忠勝の次男忠俊が
余目領5000石を分知されて
余目館跡に陣屋を構えましたが
1696年、嗣子なく断絶すると
余目領は幕府領・松山藩領となりました。
こちらの余目八幡神社は719年に創建され
元は現在のこの場所にあったのですが
1362年、安保氏が館を構えるにおよび
その守護神として館の地に遷り、
厚く信仰されておりましたが
1637年に現在の地に
再び遷った経緯があります
安保氏供養塔
現在余目館の遺構は殆ど残されておりませんが
1884年に村の若者達によって
かつての領主安保氏16代の供養のために
乗慶寺境内に建立した安保氏供養塔があり
庄内町指定文化財に登録されています。
庄内町にお越しの際はぜひ余目館跡に
訪れてみて下さい。
以上余目館の歴史と史跡のご紹介でした。
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