どーもKABUOです。
巡る旅に行ってきました。
今回は庄内町狩川にあります
狩川城と城主北館利長の歴史と史跡を
ご紹介します。
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狩川城と北館利長の歴史と史跡をご紹介!
狩川城跡(楯山公園)
出羽山地が舌状に張り出す
標高57mの丘の上に位置する狩川城。
本丸は東西50m・南北127mで
東に大手門があったとされ
南の屋敷続きの部分は空濠で区切られ
二の丸・三の丸の狭い郭が
連なっていたとされています
庄内地方と最上地方を結ぶ街道沿いの
要所に築城され別名楯山城とも呼ばれ、
その歴史ですが伝承によれば
奈良時代に出羽郡司小野良実が居住し、
南北朝時代にはその後裔斎藤新九郎俊氏が
南朝方の拠点として築城にあたり
北朝方に備えたと伝えられています。
戦国時代には庄内地方を掌握しました
大宝寺氏・上杉氏が接収し
城代が置かれたと思われます。
狩川城は小高い丘の上にあることから
大変おすすめです。
北館大学利長の像
1600年、関ケ原の合戦後、
合戦の恩賞により山形城主最上義光は
庄内・秋田由利郡・雄勝郡を含む
57万石へと加増を受け狩川城には
北館大学利長が3000石で配されました。
利長が狩川城に配され領地を周ったところ
最上川が領地を流れているにも関わらず、
土地より2m〜5mも低いことから
直接川を引くことができず
また河川の氾濫が繰り返されることから
土地は痩せ細り荒れ果てておりました。
利長は用水路を確保すべくを
領地をくまなく歩き回り
10年に及ぶ調査を行いました。
しかしこの情熱は領民から奇妙に見えたようで
影では水馬鹿と呼び蔑まれていたそうです。
北館大堰
1611年、利長は立谷沢川に着目すると
義光に用水路建設を行うことを願い出ました。
当初難工事が予想されたため
一部の家臣は猛反対を行いましたが
利長は反対を押し切り
1612年、各地から6200名程の
人夫を集め工事が着手されます。
難工事の末同年7月に
延長10kmを超える用水路が完成、
これにより村々が新しく開拓され
完成後30年にして石高は
当初の10倍の30000石となり
豊かな穀倉地帯として庄内平野の礎が築かれ
この用水路を利長の名前を取り
北館大堰と名付けられました。
北館利長の墓
1615年、一国一城令により狩川城は廃城、
1622年、家臣団による内紛により
幕府から最上家の改役が命じられると
利長も所領を失いましたが
子の助次郎は新領主として転封した
晩年を子の元で余生を過ごし
1625年、享年78歳で亡くなりました。
こちらの見龍寺には北館利長の菩提寺で
境内には利長の五輪塔のお墓があり
北館神社
1778年、水路の恩恵を受けた人々たちが
利長の功績を称えて狩川八幡宮の境内に
利長を祀る祠を設け北館水神社と称しました。
1919年、社殿を狩川城跡に設けられた
楯山公園に移され北館神社となります。
1973年、現在の場所に
新社殿が建造されました。
旧立川町歴史民俗資料館
現在狩川城跡は公園整備化され
お城の遺構は殆ど残されておりませんが
春には桜の名所として知られており、
北館利長の他に庄内町旧立川町の
歴史が学べる歴史資料館がありますので
狩川城及び北館神社にぜにお越し下さい。
以上の狩川城と北館利長の歴史と史跡の
ご紹介でした。
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狩川城のアクセス場所はこちらです
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