どーもKABUOです。
巡る旅に行ってきました。
今回は伊達政宗の居城として使用され
近世江戸時代には米沢藩上杉氏の
藩政の中心でありました
米沢城の歴史と史跡を
1部・2部に分けてご紹介します。
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米沢城の歴史と史跡をご紹介!
米沢城跡(松が岬公園)
米沢城の堀
米沢市中心街にあります米沢城。
松ヶ岬城・舞鶴城とも呼ばれ、
最上川上流の松川左岸の
松川扇状地の扇央部に立地。
標高250mの平地に築かれた
中世から近世にかけての平城になります。
その歴史ですが1238年、
長井荘地頭大江時広が城館を置いたことに
始まるといわれており、
その後時広は地名から長井姓名乗り
長井氏による150年間の統治が続きます。
1380年、8代長井広房の時代
長井氏は奮戦するも力及ばず敗戦、
置賜地方は伊達氏の領国となりました。
舘山城
居城を置いておりましたが米沢城には
本拠地を置くことはありませんでした。
1548年、伊達稙宗・晴宗父子による
天文の乱が起こり晴宗方が勝利をおさめると
桑折西山城から米沢城へと居城を移しました。
米沢城は日本の本州をまっすぐ横断する
2街道の中央に位置する米沢・会津は
奥羽地方の出口を押さえる要所であり、
北は山形最上家、南は会津蘆名家と
領国を広げるため米沢城に
本拠地を移したと考えられています。
最上川の支流に囲まれた米沢城ですが
平城であるため手薄な防備は否めず
米沢城は主に政務が行われいざ戦が始まれば
こちらの舘山城に立て籠もり、
戦いに備えていたと考えられています。
また一説には米沢城というお城は
現在の中心街のお城ではなく
当時こちらの山城の方であったと
考えられている説もあるそうです。
舘山城の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです。
米沢城ゆかりの戦国武将
伊達政宗生誕の地碑
伊達氏は以降晴宗・輝宗・政宗と
約50年間米沢城を中心に統治が行われ
伊達政宗の時代に最盛期を向かえ
1589年、摺上原の戦いに勝利を収め
蘆名氏の居城がありました
黒川城(会津若松城)へと本拠地を移し
米沢城には晴宗の弟宗澄ついで
宗清を城代に据えましたが、
総無事令を無視したと問題視され
会津領を没収され米沢城へと戻る事となります。
1591年、伊達氏旧領土であります
旧領主大崎氏・葛西氏家臣による
大規模な一揆が発生すると
秀吉より葛西大崎一揆によって荒廃した
命じられる事となりました。
白子神社
同じ年1591年、
配下の蒲生郷安が米沢城に入部すると
城の改修工事が行われ
郷安は米沢城を松ヶ岬城と命名、
白子神社が米沢城鎮守となります。
その後蒲生氏郷の急死により
嫡男秀行が家督を相続しましたが
若輩の為家中を上手く統率ができず
重臣同氏の対立を招くお家騒動に発展、
修復困難と見た豊臣政権は1597年、
蒲生氏に対し宇都宮に移封する事を命じました
稽照殿
1598年、蒲生氏の宇都宮転封にともない
この時代兼続は国替えによって
分断され飛び地となりました庄内地方を結ぶべく
1600年、関ヶ原の戦いでは
東軍に与する最上義光を牽制すべく
米沢城から出兵し最上領へと侵攻。
最上の支城を次々と攻略した上杉軍でしたが
山形城間近の長谷堂城での戦いで
苦戦を仕入れられてしまい
そうこうしているうちに
石田三成西軍は敗北、
敗北の知らせを受けた兼続は
最上軍の追撃を見事にかわし
米沢城へと退却しました。
30万石へと減封を命じられ
米沢城へ居城する事となりました。
作成された銅像です。
重要文化財132点が展示され
とても見応えがありました。
以上米沢城の歴史と史跡
中世戦国時代編でした。
次回は米沢藩時代の歴史と史跡を
ご紹介します。
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