どーもKABUOです。
巡る旅に行ってきました。
今回は米沢藩の財政を立て直し
後世に多大な影響を与えた
名君上杉鷹山の史跡巡りを行いました
前回の記事はこちらです
前回に引き続き今回は
上杉鷹山が行った政策や
現在でも米沢市に受け継がれる
精神や産業等をご紹介出来ればと思います
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上杉鷹山の歴史と史跡をご紹介!
鷹山公籍田の碑
米織会館
米沢藩主になりました鷹山は
質素倹約を行う傍ら
今度は産業の改革を行います。
下級武士による農地開拓を奨励すると
城や武家屋敷の庭を利用し作物を栽培、
荒れ地に水を引き置賜地方の気候に合った
紅花や青苧、養蚕業に力を注ぎ
時には自ら鍬を持ち率先して
農地の開墾を行いました。
養蚕業が盛んに行われていた事に着目すると、
京都から織物師を招いて研究開発を行い
武家の婦女子に内職として機織りを習得させ
これにより織物産業が飛躍的に発展しました。
こちらの鷹山公籍田の碑は
天子(君主)が国内の農事を励ますため、
自ら田を踏み耕し、収穫した米を祖先に
備えたことを意味する
籍田(せきでん)という故事から由来するもので
この故事を学んでいた鷹山は
凶作に苦しむ農民の農業耕作を励ますため
故事にならい籍田の礼を行います。
以後、籍田の礼は恒例となり
歴代藩主により続けられました。
後に鷹山の遺徳を後世に伝えようと
1902年、鷹山公籍田の碑が
現在地に建てられました。
鷹山が奨励した織物産業は
米沢の産業に大いに発展をもたらし
現在でも米沢織として
全国でも高く評価されており、
こちらの米織会館で米沢織の販売がされ
米沢織の魅力にふれることができる
人気観光スポットとなっています。
餐霞館遺跡
1782年から1788年にかけて
東北各地で多くの餓死者を生んだ
他藩ではずさんな藩政のもと
混迷を生み多くの死者が続出しましたが、
鷹山は宝暦の飢饉などの経験から
1774年から米の備蓄制度を整えており
また越後や酒田から米を買入れ
領民に配布を行い被害を
最小限に抑える事に成功しました。
1785年、
鷹山は35歳の若さで突如隠居を決め
養子である上杉治広に家督を譲ります。
その背景には江戸への参勤交代がありましたが
藩主でなければ江戸へ向かう必要が無い事から
飢饉への対処に力を注ぐべく隠居を決めました。
鷹山は治広に家督を譲る際
伝国の辞と呼ばれる藩主としての
心得を説きます。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
(国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない)
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
(領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない)
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
(国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、”君主のために存在・行動する国・国民”ではない)
右三条御遺念有間敷候事(三ヶ条を心に留め忘れなきように)
(米沢観光協会引用)
伝国の辞はその後代々上杉家の家督相続時に
家訓として伝承されました。
こちらの餐霞館遺跡は鷹山が
隠居後に住んだ餐霞館のあった場所で
米沢城の南に位置するため
南亭とも称されました。
松岬神社
1802年、
剃髪を行い白鷹山からあやかり
治憲から鷹山へと名を改め、
1822年の逝去まで治広の後見人として
藩政の主導を行うとともに
後継藩主の育成に勤しみました。
鷹山の業績は明治以降
修身の教科書にも数多く取り上げられ
内村鑑三による代表的日本人として
各国に紹介されると、
鷹山の功績を讃えた事が知られています。
こちらの松岬神社には
鷹山とともに米沢藩を立て直した
細井 平洲・竹俣 当綱・莅戸 善政が
祀られています。
米沢市に観光のお越しの際は
上杉鷹山にまつわる歴史や史跡巡りを
ぜひ行ってみてください
以上、上杉鷹山の歴史と史跡のご紹介でした。
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上杉鷹山にまつわる史跡はこちらです。
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