KABUO 原付CUBで激走。山形、東北街道巡りの旅 (ときどき海外も)

故郷山形と東北各地の旧街道をメインにHONDAの50ccカブにまたがり各地を巡ります 各地の歴史や史跡、観光スポットを紹介できればと思います ときどき海外旅行も紹介していきます

米沢市 傾奇者!前田慶次の歴史と史跡をご紹介!🌸

どーもKABUOです。

 

山形県米沢市の歴史と史跡を

巡る旅に行ってきました。

今回は上杉景勝に仕官し、

直江兼続とも親交がありました

前田慶次が晩年余生を過ごした

米沢市堂森を中心に慶次にまつわる

歴史や史跡をご紹介します。

 

 

 

 

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傾奇者!前田慶次の歴史と史跡をご紹介!🌸

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花の慶次

 

天下御免の傾奇者前田慶次。

少年ジャンプで連載されていました

原哲夫氏の花の慶次のイメージが強い

前田慶次でありますが

本名は前田利益、

小説や漫画の影響で前田慶次・慶次郎と

通称で呼ばれる事が多いと思います。

 

出生は織田信長の家臣滝川一益の甥

滝川益重だとされており

後に母が前田利家の兄利久の後妻になったため

養子となり前田性を名乗る事となりました

 

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堂森地区と月見平

 

父である利久は荒子城主であった為

順調に行けば慶次が

前田家の跡継ぎとなるはずでしたが、

利久は気難しい性格や病弱だった事もあり

主君織田信長の命により

家督は前田利家へと引き継がれました。

その為利久・慶次親子は荒子城を明け渡し

慶次は一時浪人となり

京都で公家や文化人と交流を広め

気ままに過ごしていたと記録されています。

 

その後織田信長の元で出世し

能登国一国を任される大名となった

前田利家を頼り父利久と共に再び仕官すると

信長の死後、豊臣秀吉の時代では

小田原征伐が始まると利家と共に

行動を共にしたと記録に残されています。

 

米沢市万世町堂森地区は

前田慶次が晩年過ごした場所で

慶次にまつわる史跡が数多くあり、

地区にあります小高い月見平では

慶次が地域の住民や友人を招いて

たびたび月見などの遊山を

楽しんだ場所です。

 

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無苦庵跡

 

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慶次清水

 

しかし1587年、

父利久の死去にともない

利家との関係に軋轢が生まれ

妻子を残し突如前田家を離れる決意。

その時利家を水風呂に呼び寄せ

冷水を浴びさせ嫌がらせを行ったという

逸話が残されています

 

前田家を離れた慶次は京都へと再び戻り

悠々自適な生活を送っておりましたが

この京都の暮らしの最中、

上杉氏家臣直江兼続と出会い

兼続の計らいで主君上杉景勝に

仕官したとされています。

 

こちらの無苦庵跡は

慶次が余生をおくったとされる屋敷跡で、

庵が存在したとみられる範囲には

土塁の一部と堀の跡が残っています。

慶次清水は無苦庵近くにあります

飲料用に掘られた清水で慶次も飲料用に使用、

後に慶次清水と呼ばれるようになりました。

 

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前田慶次の甲冑

 

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宮坂考古館

 

1600年、関ケ原の戦いにおいて

上杉景勝と直江兼続は

石田三成に呼応し徳川家康と対立。

上杉討伐を目指す家康は進軍を進め

居城会津で待ち構えておりましたが

石田三成の挙兵の知らせを受けた

家康は反転し関ケ原で激突する事となります。

家康を三成に任せた景勝と兼続は

徳川に呼応する最上義光を倒すべく

最上領土へと侵攻を進め長谷堂城で激突。

数に勝る上杉軍でしたが

最上軍の巧みな戦術に苦戦、

そうこうしているうちに

石田三成西軍が敗北したとの知らせを受け

撤退を余儀なくされます

 

この時慶次は直江兼続を逃すため

大槍を振るい勇猛果敢に最上の敵兵を打ち払い

味方の将兵を誰一人傷つけることはなく

殿(しんがり)を努めました。

その後、関ケ原の合戦の敗戦により

上杉家は会津120万石から

米沢30万石へと減封されますが

慶次は米沢に残り堂森山近くに庵をかまえ

悠々自適な余生を過ごしたといわれています

 

こちらの宮坂考古館は

故宮坂善助氏が収集を行った

約700余点の貴重な資料が収蔵され

特に米沢藩関係の重要文化財が数多く

前田慶次が着用した朱色の甲冑をはじめ

上杉景勝や直江兼続にまつわる

貴重な文化財が展示観覧する事ができます。

写真の前田慶次の甲冑は

宮坂考古館で展示されている物を

道の駅米沢で特別展示されていた際

撮影した写真になります。

 

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前田慶次供養塔

 

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 慶次の力石

 

前田慶次の晩年は資料によって異なりますが

1612年、堂森で亡くなったとされ

北寺町の一花院に葬られたとされます。

現在一花院は廃寺となっており

近年地元の有志により

堂森善光寺に供養塔が建立され

毎年6月には供養祭が行われています。

境内を歩くと慶次の力石や

慶次にまつわる資料が残されており

とても見応えがありましたので

米沢市に観光にお越しの際は

前田慶次の史跡を巡ってみては

いかがでしょうか

 

以上

前田慶次の歴史と史跡の

ご紹介でした。

 

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