どーもKABUOです。
山形県南陽市の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました。
古墳時代の史跡稲荷森古墳や
恋愛成就の神様として
多くの参拝者が訪れる宮内熊野大社、
江戸時代宿場町で栄えた赤湯温泉等
原始古代から近現代までご紹介します。
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南陽市の歴史と史跡をご紹介!
南陽市役所
県南東部、米沢盆地の東北端に
位置する南陽市。その歴史ですが
1967年、赤湯町・宮内町・和郷村の
新設合併により南陽市が発足。
市名の由来ですが
当時の県知事でありました
安孫子藤吉氏により
中国の故事である
「南陽の菊水」から引用して命名。
「北に丘陵、南に沃野で
まことに住みやすいところ」
という意味があります。
稲荷森古墳
原始・古代の時代
縄文遺跡と古墳遺跡は
米沢盆地北東に集中的に発見されており、
南陽市では須刈田遺跡・松沢遺跡
小岩沢遺跡・金沢山ノ神遺跡
十分一山遺跡・鳥帽子山遺跡
元仲山日影遺跡・長岡山遺跡等が
吉野川流域に各地に分布しています。
古墳時代の著名な史跡として
稲荷森古墳がよく知られており、
全長96mに及ぶ前方後円墳で
5世紀のものとされ県内最大級を誇り
国指定史跡に登録されています。
また稲荷森古墳以外にも
古墳時代の史跡として
二色根古墳・ 松沢古墳群
上野山古墳群が発見され
県・市指定史跡に登録されています。
宮内熊野大社
律令制時代の頃、
当地域は置賜郡7郷のうち
置賜郷に属していたとする説が有力視され、
置賜郡の中心をなした地域と考えられ、
二色根薬師寺・宮内熊野大社
別所皇太神社・三堀寺など
赤湯・宮内方面に9世紀頃に創建された
古社寺が数多く存在しており、
12世紀に入ると奥州藤原氏の
管理下に置かれる事となりました
こちらの宮内熊野大社は
日本三熊野の1つとされる名社で
宮内という地名は熊野大社の
門前町として発展したことが由来となります。
宮内熊野大社の歴史と史跡を
紹介した記事はこちらです。
梨郷神社
中世の時代
中世の置賜郡には
屋代荘・成島荘・北条荘園などの
荘園があったことが知られており、
南陽地区は北条荘に属し、
北条荘の由来ですが
北条時政の庶子北条相模坊臨空が
この地を統治したことに
始まると伝えられていますが
起源や支配についての詳しいことは不明です。
1185年、奥州藤原氏の戦功により
大江広元は寒河江荘・長井荘(置賜郡)の
地頭となると次男時広が長井荘を相続し、
長井氏と名乗り置賜郡全域を
統治する事となりました。
こちらの梨郷神社には
県内最古の板碑が3基並び
板碑とは鎌倉時代から室町時代に
関東を中心に流行した
石碑に梵字・仏・五輪塔などを
彫ってまつった供養塔であり、
鎌倉幕府の支配にともなって
関東から置賜に移入したもの考えられます。
梨郷神社以外にも南陽市には
板碑が数多く存在しており
県指定文化財に登録されています。
二色根館跡(薬師寺)
1380年、福島県伊達郡を本拠地とする
伊達宗遠・政宗親子は置賜郡へと侵攻、
長井氏を滅ぼし以後、
1591年、伊達政宗が
宮城県岩出山に移封されるまで
伊達氏によって置賜郡の統治が行われました。
南陽市一帯に各家臣団を配置を行い、
薬師寺より北にあります
標高341mの山に築城された二色根館は
伊達政宗の家臣栗野秀用が
館主であったと伝えられており
南陽市指定史跡に登録されています
鳥帽子山八幡宮
近世の時代、
伊達政宗の岩出山移封にともない
会津に蒲生氏が入部すると
1594年、検地が実地されたが
1598年、上杉氏が入部、
以後米沢藩領として幕末に至りました。
1601年、会津120万石から
米沢30万石に減封された上杉氏は
約6000人の家臣を養うために
下級武士を原方衆として原野地に入れて
半農半士的な生活をさせると
各地で諸士開きと呼ばれ
新田開発を奨励されると
南陽市一帯も開拓される事となります。
米沢と上山を結ぶ米沢街道には
川口・中山・小岩沢・川樋・赤湯
大橋・糠野目に宿駅が設けられると、
特に赤湯は温泉が湧き出る事から
宿場町として大変栄えました。
赤湯の中心にあります鳥帽子山八幡宮は
1093年、後三年の役により
源義家が下向した際、
その弟加茂義綱が北町八幡沢に祠を建て
勝運の長久を祈ったのが起源とされる神社で、
1903年に作られた石鳥居は
継ぎ目のない一本石の石鳥居として
日本最大の大きさを誇り
南陽市指定文化財に登録されてます。
白竜湖
現在南陽市では
ぶどう、さくらんぼ、りんご、ラ・フランス等
多くの果実が生産されており
またワインの醸造にも力を入れております。
山形県置賜地方にお越しの際は
ぜひ南陽市に観光に訪れてください
以上南陽市の歴史と史跡の
ご紹介でした。
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