どーもKABUOです。
山形県東置賜郡高畠町の
歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。
同町の歴史と史跡を
原始古代から古墳時代
中世、近世、近現代と
2部に分けてご紹介します。
前回の記事はこちらです
今回は中世伊達氏の歴史や居城高畠城、
近世江戸時代の
義民高梨利右衛門酬恩碑や織田藩の歴史、
近代から近現代をかけてご紹介します。
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高畠町の歴史と史跡をご紹介!(中世〜近現代編)
高畠城(高畠小学校)
伊達氏九代政宗夫妻の墓
中世の時代
1189年、奥州合戦に勝利した
源頼朝はその功により置賜郡地頭職を
大江広元に与え、同氏次男時広が入部、
長井氏と称し140年間にわたり
置賜郡全域を統治を行いました
建武の新政時代、
後醍醐天皇は屋代荘の地頭職を
長井氏から奪い功臣楠木正成に与えましたが
室町幕府の成立後間もなく
長井氏の領土へと戻されます
しかし1380年、
福島県伊達郡を本拠地とする
伊達宗遠・政宗親子の軍勢は
二井宿峠を超え進軍を進めると
屋代・長井を手中に治め長井氏は滅亡。
以降伊達氏により置賜郡全域の
統治が始まりました
こちらの高畠城は鐘ヶ城ともいわれ
承安年間(1171〜1174年)
藤原秀衡のいとこ、樋爪季衡が
築城したと伝えられています。
長井氏を滅ぼした伊達政宗は
本拠をこちらの高畠城に移すと
屋代城と称し以来150年間
伊達氏の居城として使用されました
伊達氏九代政宗は
政治手腕に長け和歌をよくするなど
文武を兼ね伊達中興の祖といわれ
安久津八幡神社などを手厚く保護を行い、
その名は独眼竜の呼称で知られる
17代政宗にもその名前が
受け継がれた人物になります。
現在高畠城は
高畠小学校グランド内に本丸が
昭和保育園付近に
大手門があったといわれており
現在の堀は内堀跡で
高畠町指定文化財に登録さています。
高房神社
伊達氏はその後着々と勢力を広げ
伊達氏14代稙宗は
陸奥国守護職に任命されるなど
最盛期を迎えましたが家中の争いが絶えず、
1542年、稙宗の嫡子晴宗との確執により
稙宗派と晴宗派2党に分かれて争う
天文の乱をきっかけに求心力は弱まり
最上氏・蘆名氏・相馬氏等、
戦国大名として独立を果たす結果となります。
こちらの高房神社は
神社縁起に藤原高家・房家を
祀っていると伝承に残されており
高さ2.6mの神社前の石鳥居は
1538年に建造されたもので
県指定文化財に登録されています。
伊達氏十六代輝宗の墓
資副寺跡
天文の乱の争い後、
家督は晴宗に譲られ置賜の本拠を
高畠城から米沢城へと移され、
高畠城には家臣小簗川親宗が入城、
その後、伊達氏17代政宗が
宮城県岩出山に移封されるまで
屋代荘一帯の統治が行われました。
その後、蒲生氏・上杉氏と統治者を変え
江戸時代を迎える事となりました。
こちらの資福寺は
鎌倉建長寺の大林禅師を開山として、
弘安年間(1278〜1287)に
長井時秀により創建されました。
長井氏滅亡後も伊達氏は
帰依寺・学問寺として手厚く保護し
独眼竜政宗片倉小十郎師となる
名僧虎哉宗乙を招くなど
後に伊達五山の一つに
数えられることとなります。
伊達政宗の岩出山移封にともない
資福寺を移転し
お寺の遺構は残されておりませんが、
境内には無念の死を遂げた
政宗の父輝宗と殉死した重臣遠藤基信
伊達氏9代政宗夫妻の墓があります。
義民高梨利右衛門酬恩碑
近世の時代、
1600年、関ケ原の戦い後、
上杉景勝が所領を30万石に削減され
置賜郡に入部し米沢藩を立藩、
米沢藩は郡内の諸城に城代を配し、
高畠城代は春日元忠が務めました。
1601年、伊達政宗が上杉領に侵入し
高畠町域で上杉氏配下の直江軍と
交戦し撃退されましたが
古来より置賜郡屋荘に属した
湯原地区(現宮城県)は
以後伊達領へと組み込まれました。
藩政初期には屋代川や和田川下流域の
低湿地帯や大谷地緑辺部の
開発が進められましたが
所領を大幅に削減された事もあり
藩財政の圧迫から苛烈な年貢の取り立てが
行われた歴史が残されています。
1664年、藩主上杉綱勝が
江戸桜田邸で急死したために米沢藩は
廃絶の危機に見舞われます。
この時赤穂事件の吉良義央を
養子に迎え辛うじて15万石で
存続を許される事となりましたが、
高畠町一帯は一部を除き
幕府領となり高畠陣屋が設けられました
こちらの義民高梨利右衛門酬恩碑は
1666年、米沢藩の重税と苛政に苦しむ
屋代郷の農民を救うため幕府に直訴し、
1688年に起訴の罪で磔刑となった
高梨利右衛門を祀った碑で
今も義民伝承として語り継がれており
碑は町指定史跡に登録されています。
妙国寺
1767年、小幡藩主織田信邦が
宝暦事件の中心人物である
山県大弐召抱えの件で幕府の勘気にふれ、
出羽国内に減封を言い渡され
置賜郡内に高畠城と周辺村々、
村山郡内に天童以下の村々が与えられ
合わせて23000石を領有し
高畠藩を立藩。
織田氏は高畠陣屋を修復し
当初ここに在館しましたが、
1826年、失火で城内全焼すると、
1830年、天童に所領が多かった為
本城を天童舞鶴山に築き天童藩を立藩
再び高畠地区周辺は幕府領となると
米沢藩預かり地・最上柏倉陣屋・米沢藩と
何度も統治者を変え戊辰戦争を経て
明治を迎える事となりました
こちらの妙国寺は高畠藩織田氏の
菩提寺として使用され
高畠藩の歴史を今に伝えるお寺です。
天童織田藩の歴史と史跡を
紹介した記事はこちらです
旧山形交通高畠駅
近現代、1900年、
奥羽本線が赤湯駅まで開通すると
本線と高畠町を結ぶ鉄道敷設計画が進められ
1922年、高畠鉄道のが開通されると
一本柳・竹ノ森・高畠・二井宿に駅が設置され
1974年にモータリゼーションの発達により
廃止が決まるまで
町の産業文化の発展に活躍しました。
地元産の高畠石を使用して
建築された旧高畠駅は
重厚かつモダンな駅で
現在は鉄道記念館となって保存されています。
高畠ワイナリー
浜田広介記念館
現在高畠町では
日本一の生産を誇るデラウェアや
ワインの製造販売、
米・果実の栽培が盛んに行われており
泣いた赤鬼の著者、浜田広介氏は
高畠町の出身で同氏の記念館もあります。
置賜地方にお越しの際は
高畠町にぜひ遊びに来てください。
以上
高畠町の歴史と史跡のご紹介でした。
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こちらが史跡のアクセス場所です。
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