どーもKABUOです。
山形県東置賜郡高畠町の
歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。
奈良の安倍文殊院、京都の切戸文殊とともに
今回は日本三文殊の一つに数えられる
亀岡文殊の歴史と史跡をご紹介します。
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亀岡文殊堂の歴史と史跡をご紹介!卍
亀岡文殊堂参道
亀岡文殊堂は正式には
松高山大聖寺(だいしょうじ)といいます。
その歴史は807年、平城天皇の命を受けた
奈良東大寺住職徳一上人が中国五台山より
伝来した文殊菩薩を高畠町亀岡に
移したのが始まりだと言われています。
・・・と山形の観光情報サイトに
記載されていましたが、
この徳一上人とは何者なのでしょうか?。
というか何で三文殊の一つが
政権がありました京都や関西ではなく
東北の田舎である高畠町にあるのか
謎が深まります。
そこで徳一上人について深堀してみます。
徳一上人は749年に
藤原仲麻呂の11男として生まれ
その後父仲麻呂が反乱をお越し
一族はことごとく処刑されましたが
徳一は奈良県東大寺に預けられ出家すると
770年興福寺で法相宗を学びましたが
仏教を学ぶにつれ権力と結びつき堕落した
都の仏教に疑問を持つようになり
平城京を離れ東国へ向かい、
幣衣粗食に甘んじる雲水の僧となります
(会津への夢街道引用)
こちらがアクセス場所です。
この頃の日本仏教の動きですが
三諭宗・成実宗・法相宗・倶舎宗
律宗・華厳宗など南都六宗が勢力を誇り
政治や貴族社会に影響力を誇ります。
しかし仏教が力を増すに連れ
戒律を無視する僧が増え堕落しました。
そんな時代のなか徳一上人は都を離れ
真の仏教を求めるべく
まだ仏教未開の地でありました
関東や東北で布教活動を行い、
福島県会津をを中心に
恵日寺・鳥追観音・勝常寺
福満虚空蔵尊を創建するなど
仏都会津と称されるほど
奥州一の仏教文化を作り上げました
また興味深いエピソードも残されており
この頃朝廷に服従しない蝦夷の民を
服従させるべく何度も討伐が行われるなか
徳一上人はその政策に反対、
781年に桓武天皇が即位し
政治に口出しする寺院を煙たがり
平安京に遷都を決行した後
旧仏教勢力を排除しますがそれに抵抗、
体制側である最澄や空海とも論争する等、
気骨ある反体制的な立場の人間で
朝廷からも影響が遠く及ばない
自分が理想とする仏教道を極めたい思い
東北で布教を進めた人物だと筆者は思います。
亀岡文殊本堂
その後平安・鎌倉・室町と続き
時の権力者からも厚い信仰を集め、
1591年、伊達政宗が陸奥岩出山移封の際、
岩出山にともに移る資福寺の古鐘を寄進、
1602年、直江兼続は奉納詩歌会を主催、
家臣前田慶次らとともに100首奉納、
また別当大聖寺は皇室の祈願所として
国家安穏の祈祷が命ぜられ
徳川5代将軍綱吉から家茂までの間、
御朱印100石を賜る待遇を受けました。
現在では兼続が奉納した直筆の短冊が残され
大聖寺に祀られている木造聖観音立像とともに
県・町文化財に指定されています。
利根水(知恵の水)
亀岡文殊堂には知恵を授けると言われる
文殊菩薩が祀られており
合格祈願や学徳成就にために
受験を控えた多くの学生が参拝に訪れ
境内に湧きます利根水は
文殊様の知恵が授かるといわれ
里の名水やまがた百選にも選ばれています
受験生のみならず
知恵や人生に迷える方は
ぜひ亀岡文殊堂に参拝に訪れてみてください。
以上、歴史と史跡のご紹介でした。
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