どーもKABUOです。
歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。
今回は中世の城跡、
萩生城の歴史と史跡をご紹介します。
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萩生城の歴史と史跡をご紹介!🏯
萩生城跡と水濠跡
萩生城の歴史ですが
長井荘地頭長井広房を攻略し置賜郡を領有
その後伊達氏によって長く統治されます。
1388年、伊達氏家臣国分政信が
戦功によって下長井萩生郷を与えられ
築城したと伝えられています。
標高240mの平地に築かれた萩生城は
主郭は145m、東西77m程の規模を誇り
旧萩生小学校の敷地内が本丸跡だとされ
お城の周りに水濠跡がしっかりと残っており
飯豊町指定史跡に登録されています
恩徳寺
こちらの恩徳寺は柿本紀僧正真済によって
開基したと伝えられており、
この地に訪れたときに乗っていた牛が倒れ
蹄が破れたことから破牛と称し、
萩生地区の地名の由来となりました。
応永年間(1394〜1428年)
国分氏の3代国分光信の時代、
山王原にあった恩徳寺を
祈願所として出丸に移し現在に至ります。
恩徳寺の境内には出丸の雰囲気や
お城の土塁跡の遺構が残されており
寺院内にあります間引きの図の絵馬は
町指定文化財に登録されてており
史跡共々見応えがありました。
吉祥寺
1591年、伊達政宗の時代、
豊臣秀吉の小田原討伐の折、
参陣に遅れたものの政宗は
所領は安堵されましたが
伊達氏に従属しておりました
大崎氏・葛西氏は
統治した戦国武将)
領土を没収され没落を辿ります
新たに木村吉清・清久により
統治が行われましたが
大崎・葛西旧家臣が反発し
大規模な一揆が起こりました。
領地獲得を目論んだとされており、
その後露見した事から
秀吉によって岩出山に移封が命ぜられると
国分氏も随行し萩生城は廃城、
その歴史に幕を閉じました。
こちらの吉祥寺は
国分氏の菩提寺のお寺で
城を中心に町割りがされ
城下町の風情が残されております。
以上
萩生城の歴史と史跡のご紹介でした。
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