どーもKABUOです。
山形県西置賜郡飯豊町の
歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。
原始古代の萩生石箱遺跡や天養寺観音堂
中世の萩生城の歴史等を調べましたので
ご紹介します。
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飯豊町の歴史と史跡をご紹介!
飯豊町役場
飯豊町の歴史ですが
1954年、添川村・豊川村・豊原村が
新設合併を行い飯豊村が発足。
1958年、中津川村を編入、町制施行して
飯豊町となります。
町名の由来となりました
山形県・福島県・新潟県をまたがる飯豊山、
山名の由来は652年、
この山に登った唐の知道和尚と役小角が
山容が豊かに飯を盛ったような
姿あるところから、
名付けられたと伝承に残されており、
古い山岳信仰の場所でもあります。
上屋地遺跡
萩生石箱遺跡
原始の時代。
県内最古で最も古いと言われる上屋地遺跡は
3万年から5万年前の旧石器時代中期の
遺跡と推定されており
500点に及ぶ石器が発掘されました。
縄文時代のものとしては
野山遺跡・裏山遺跡・町下遺跡などがあり
弥生時代のものとして萩生石箱遺跡が発見、
縄文中期から平安までの集落跡だとされ
遺跡保存会の有志によって
現在の竪穴住居が復元されました。
上屋地遺跡・萩生石箱遺跡は
飯豊町文化財・指定史跡に登録されています。
天養寺観音堂
中村原土壇
古代の時代
律令制下の当地域は置賜郡に属していた。
水田耕作の中心をなす旧豊原・添川地区は
最上川と置賜白川の合流点に形成され
他地域と比べ開発の歴史が
相当古いと考えられています。
こちらの天養寺観音堂は
火災によりお寺の記録が消失し
詳しい歴史は不明な点が多いのですが
平安時代に創建されたと考えられており
1414年に現在のお堂が再建され
置賜三十三観音四番札所にあたり、
中村原土壇は天養寺に関わりある
祈祷壇だったとされ共に
県指定文化財・史跡に登録されています。
萩生城と恩徳寺
中世の時代、奥州藤原氏滅亡後、
戦功により大江広元は
寒河江荘と長井荘を承り、
その後、次男時広が長井荘の地頭となると
長井氏と名乗り置賜郡一帯の統治を行います。
1380年、伊達郡を本拠地とする
伊達宗遠・政宗親子が置賜郡に侵攻を進め、
長井氏を滅ぼすと伊達氏は新たに
置賜郡一帯の統治を行いました。
こちらの萩生城は伊達氏の
家臣国分氏によって築城されたお城で
飯豊町萩生地区には遺構が残されており
見ごたえがあります。
その後1591年、
伊達氏が宮城県岩出山移封されると
蒲生・上杉氏と統治者が移り変わり
江戸時代を迎えました。
萩生城の歴史と史跡を
紹介した記事はこちらです
手ノ子宿跡(手ノ子地区)
近世の時代
江戸時代に入り上杉氏は米沢藩を立藩。
米沢城と新潟を結ぶ越後街道が開削されると
飯豊町には松原宿と手ノ子宿が設けられ
特に手ノ子宿は米沢藩から重要視されます。
また上杉鷹山の藩政改革によって
中津川地区を中心に養蚕業が盛んとなり
越後街道を通り青苧・絹織物・木綿等
多くの特産物が往来しました。
散居集落
白川ダム
現在飯豊町で米沢牛の畜産業や
どぶろくの生産に力を入れており
また散居集落や白川ダム等の
豊かな自然や風景から
日本で最も美しい村連合に加盟しています
山形県置賜郡に旅行に訪れましたら
飯豊町にぜひお越しください
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