どーもKABUOです
山形県西置賜郡白鷹町の
歴史と史跡を巡る旅に行ってきました。
国重要文化財に指定された深山観音堂や
中世の城跡鮎貝城や荒砥城等
原始古代から近現代にかけての
同町の歴史をご紹介します。
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白鷹町の歴史と史跡のご紹介!
白鷹町役場
西置賜郡白鷹町の歴史ですが
1954年、荒砥町・鮎貝村・東根村、
白鷹村・十王村・ 蚕桑村が新設合併を行い
白鷹町が発足しました
白鷹町の町名の由来となります白鷹山、
冬に雪を抱いた姿が羽を広げた
鷹に見えることから名付けられたという説や
奈良時代行基がこの地を訪れ時、
白い鷹が飛来しそこに虚空蔵菩薩が現れ、
そこで山頂に虚空蔵菩薩を祀ったことから
白鷹山と命名したという伝説が残され
別名虚空蔵山といいます。
また米沢藩の名君といわれた
上杉鷹山の鷹山の号は
白鷹山にあやかり名乗りました。
小四王原遺跡
原始の時代
現在のところ先土器時代の
遺跡は発見されておらず、
縄文前期以降のものがほとんどで
最上川流域を中心に
小四王原遺跡・蚕桑高田遺跡・鮎貝赤坂遺跡
石那田遺跡・関寺遺跡などが
発見されています。
こちらの小四王原遺跡からは
新潟県馬高遺跡より出土する土器と
同系のものが発見されたことから
縄文時代中期初頭に新潟方面と
交流があったことが推察されており
白鷹町の指定史跡になっています。
深山観音堂
古代の時代、
律令制国家の頃、白鷹町は
置賜郡7郷のうち赤井郷に比定されており
この赤井郷の赤井が南陽市の赤湯となった説や
鮎貝が赤井の訛ったもとされる説、
またアイヌ語を語源とする説もあり
不明な点が多く定かではありません。
こちらの深山観音堂は
創建年代は明らかではありませんが、
平安時代の様式を伝える阿弥陀堂で
現在のお堂は室町時代に
再建されたものと推定されており、
阿弥陀堂建築として古風な形を残す事から
文化的価値が認められ
国の重要文化財に指定されています。
瑞龍院
中世の時代、
1189年、奥州藤原氏の討伐や
鎌倉幕府の成立に多大な貢献を行った
大江広元が寒河江荘・長井荘の
地頭に任ぜられて置賜地方を承ると、
次男時広が長井荘を譲り受け
その後一族は長井氏と名乗り統治しました
南北朝動乱の時代の1377年
福島県伊達郡を支配する
伊達政宗は父宗遠と共に領土拡大を目指し
長井荘へと侵攻を進め長井氏を滅ぼすと
以後伊達氏により置賜郡は
統治されることとなります。
こちらの瑞龍院
1453年、伊達持宗が開基し
物外禅師が開山したと伝えられており
1485年、朝廷の勅願所となり
最盛期には末寺500ヵ寺と伝えられ
曹洞宗布教の一大拠点でありました。
光明海上人の即身仏
(蔵高院)
応永年間(1394年〜1428年)
西川町大日寺の道知上人により
出羽三山に通じる参拝道が整備されると
白鷹町から西川町大井沢大日寺を経由する
修験者の往来が増し、
江戸時代に最盛期を迎え修験者のみならず
多くの参拝者が出羽三山参詣に訪れました
こちらの蔵高院は
湯殿山行者でありました
光明海上人の即身仏が安置されており
白鷹町黒鴨には同時の旧参道と
光明海上人の墳墓が残され
町の指定文化財に指定されています
荒砥城跡(八乙女八幡神社)
鮎貝城跡(鮎貝八幡宮)
伊達氏の統治のもと在地武士の多くが
伊達氏の支配下に組み込まれ地頭となる中、
地頭領主でありました
鮎貝城主鮎貝氏や大荒砥城主大立目氏は
強力な在地支配権を維持し続けて
伊達氏の家臣の中でも極めて独立性の強い
地方領主としてこの地を治めます。
こちらの荒砥城と鮎貝城は
伊達氏の支城として使用され
山形城最上氏領土と接する事から
戦略上重要拠点地でありました。
1591年、伊達政宗の岩出山に移封に従い
鮎貝氏・大立目氏はこの地を去ると
蒲生氏・上杉氏がこの地に入封を果たし
1600年、関ヶ原の戦いでは
荒砥城から上杉氏家臣直江兼続が出陣し
最上領土へと侵攻した歴史が残されています。
荒砥城・鮎貝城の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです。
諏訪神社
最上川と黒滝開削跡
近世の時代
関ケ原の合戦後、会津より米沢に
上杉氏が移封され米沢藩を立藩。
以後幕末まで置賜地方は上杉氏により
統治される事となります。
米沢城を中心に置賜地方を統治すべく
白鷹町には鮎貝城・荒砥城の跡地に
御仮屋が設置され藩政を取り仕切り
耕地の拡張と生産の増強に努め
大きな灌漑用水工事が行われ
1612年、諏訪堰の開削という
大事業に成功した沼沢伊勢により
白鷹町浅立に諏訪神社が建立されました
(本殿・拝殿共、町の指定文化財)
こちらの黒滝開削跡は1694年、
京都の豪商西村久左衛門を中心に
17000両を投じて黒滝を開削を行います。
これにより大江町左沢と置賜地方を結び
特産の青苧や米などの輸送が容易となり
米沢藩及び最上川舟運が
大きく発展する事となりました
また工事が極めて難儀であったため
西村久左衛門は工事の無事完成を祈り
佐野原の剣先不動尊の
本堂を再建し鰐口を寄進、
白鷹町の指定文化財にに登録されています。
小松織物工房
深山和紙
江戸時代の1767年、
米沢藩主となりました上杉治憲(上杉鷹山)は
財政が逼迫した藩を救うべく
殖産興業に力を入れ養蚕・青苧栽培・織物を
熱心に奨励を行い技術導入を行い
特産品であります白鷹織や深山和紙は
この頃に開発され
現在でも全国的に評価が高い
逸品として知られており
白鷹町の無形文化財に指定されています
荒砥駅
近代の時代、1922年〜1923年
南陽市赤湯から白鷹町鮎貝・荒砥駅を結ぶ
現在のフラワー長井線が開通されると
明治維新後の国策もあいまって
蚕種製造が更に発展を遂げる事となり
また桑の需要も増し荒砥は桑市が行われ
品種・飼育改良により町は大いに発展しました
現在白鷹町では米沢牛や馬肉の生産の他に
紅花を原料とする紅餅、すり花、乱花の
生産量全国シェア6割を超える
紅花染めの生産地として知られています。
山形県に観光にお越しの際は
ぜひ白鷹町に訪れてみてください
以上
白鷹町の歴史と史跡のご紹介でした。
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史跡のアクセス場所はこちらです。
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