どーもKABUOです。
山形県西置賜郡白鷹町にありますお城跡、
荒砥城の史跡調査を行いましたので
お城の歴史をご紹介します。
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荒砥城の歴史と史跡をご紹介!
荒砥城跡(八乙女八幡神社)
西置賜郡白鷹町荒砥にあります荒砥城。
別名早乙女城・ 石灘城とも呼ばれ
最上川右岸の標高218mの
八乙女ヶ丘に立地した単郭式の平山城です
築城年代は定かではありませんが
永長年間(1096年〜1097年)に
奥州藤原氏の家臣荒川次郎清泰によって
築かれたと伝われており
鎌倉時代には大江氏の一族であります
長井氏の支配下に入りました。
荒砥城にあります八乙女八幡神社は
源義家が石清水八幡宮を
勧請した事が始まりだとされ
この丘に弓矢を奉り八人の乙女に舞を踊らせ
戦勝祈願を行ったとの伝承が残されています
お城跡はこちらです、
蛇井戸跡
八乙女八幡神社の参道脇にあります
こちらの蛇井戸跡には伝説が残されており
敵の攻撃をうけたとき空井戸の竜神に祈ると
不思議にも水が湧き溢れ空濠に水が充満して
敵の侵入を防ぐ
難攻不落の城になると伝えられ、
明治初期まで井戸の形跡が残されていました。
八乙女八幡神社本殿
八乙女種まきザクラ
長井氏はその後南北朝時代の1380年、
置賜に侵攻を行った
伊達氏との抗争に破れ敗北、
荒砥城は伊達氏に接収されると
元中年間(1384年〜1392年)
伊達氏家臣馬場将監によって濠をめぐらし
城郭が整備されたと伝えられています
その後、荒砥城を中心に伊達氏の統治が進み
桑島和泉守・荒砥三郎・大立目氏が3代居城、
伊達領と最上領の境目に立地している事から
戦略上重要拠点だったと考えられており
伊達輝宗と最上義光との争いでは
輝宗が一時本陣を構えました。
八乙女八幡神社にあります
八乙女種まきザクラは荒砥城主桑島和泉守が
その庭前に植えたものと称され
昔はこの桜が咲いた時が
春の苗代に種をまく好期としたことから
通称種まき桜と呼ばれてきました。
荒砥城空堀跡
神社内を散策しますと
お城の遺構が多く残されており
こちらの空堀もその一つで
昔、荒砥城へ登る正面の道は南であったそうで
城の東南には、鈎なりに水堀があり
あとはぐるりと空堀を巡らしていたそうです。
御楯稲荷神社
1591年、伊達政宗が移封されると
蒲生氏領となり水野三郎左衛門が配され、
1598年、上杉氏領となると
直江兼続の家臣泉沢久秀が城主となり
城や八幡神社を修復したとされ
1600年、慶長出羽合戦の際は
最上領八ッ沼城(朝日町)や
畑谷城(山辺町)へと攻め寄せ落としました
こちらの御楯稲荷神社の由緒は
1596年、直江兼続が荒砥城の修復の時、
南郭内の鎮守である御楯稲荷神社の社殿を
修理崇拝せりと記されており
慶長出羽合戦の際、
こちらの御楯稲荷で戦勝祈願をしたといわれ
萩野・中川を進軍し迷っていると
御楯稲荷神社の白狐が現れ
道案内したと伝えられております。
八ッ沼城と畑谷城の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです
御役屋跡
(荒砥コミュニティセンター)
1601年、関ケ原の合戦後
上杉景勝と直江兼続は米沢に移封されると
荒砥城は米沢藩5支城の一つと数えられ
上杉氏重臣が代々城代を務め
1692年には御役屋が設置され
幕末まで使用されました
八乙女八幡神社の麓にあります
こちらの荒砥コミュニティセンターが
ある場所に御役屋があっと場所だとされ
荒砥小学校の跡地になります。
荒砥城標識
お城の標高は高くありませんが
最上川を自然の堀に見立てたお城の造りや
八乙女八幡神社も見応えがありますので
白鷹町にお越しの際は
ぜひ荒砥城の観光に訪れてみてください
以上
荒砥城の歴史と史跡のご紹介でした。
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