どーもKABUOです。
山形県寒河江市の歴史と史跡を
巡る旅に行ってきました。
今回は西村山一帯を統治しました
寒河江大江氏の居城、
寒河江城の歴史と史跡をご紹介します。
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寒河江城の歴史と史跡をご紹介!
寒河江城跡の碑
寒河江城の歴史ですが
1192年、奥州藤原氏討伐の功により
大江広元が寒河江荘を賜り、
目代として多田仁綱を入部させ
寒河江の領国経営に当たらせました。
1221年、広元の嫡男親広が
承久の乱において後鳥羽上皇側に付き
幕府に敗北を喫すると寒河江荘に逃れ
寒河江市丸の内に館を築城したのが
寒河江城の前身となります。
寒河江城本丸跡
寒河江城が本格整備されたのは
8代大江時氏の頃だったと言われています。
南北朝動乱の時代の1368年、
大江氏は南朝方に味方し
北朝方の山形城主斯波兼頼と争うと
漆川の合戦において大敗北を喫します。
合戦後、
北朝方に和を乞い降ることを遺命を残し
7代大江時茂が亡くなると
生き残った時氏は家督を譲り受け
北朝方と和睦を結び所領は安堵されましたが、
斯波氏の支配下に置かれる事となりました
この頃から本格的に整備された背景には
斯波氏に対し従順するも争乱の備えとして
防備を固めた整備を行ったのではないかと
考えられます。
寒河江城推定図
親広の時代には本丸のみでありましたが
城郭整備にあたり二の丸、三の丸を拡張造営、
本丸は東西110m・南北に162mで
濠幅14m、その内側に土塁がありました。
二の丸は東西250m・南北330m、
濠幅16m、その外側に幅約10mの
通水路がめぐらされ重臣の屋敷を配した
輪郭式の平城になります。
旧惣持寺跡
大江氏は寒河江氏と称し
領国や人民の安定を図る為
寺院や神社の建立を行い
寒河江市内には寒河江大江氏の菩提寺や
祈願寺が多く残されています。
こちらの惣持寺跡は
寒河江城の二の丸に建立された寺院で
城の鬼門を守ると同時に
寒河江大江氏の祈願寺として繁栄します。
全盛期には末寺40ヶ寺を持つ
中本山の寺格の広大な寺院でありました。
駒形堂
その後寒河江大江氏は一族を各地に分封させ
西村山地方の統治に務めましたが
戦国時代に最上・伊達氏との戦闘の繰り返しや
1574年、最上義守・義光親子による
天正最上の乱では寒河江氏は義光に味方するも
主流派一族は義守に味方し寒河江城に攻め寄せ
本丸を残し攻め崩されてしまう等など
一族との内紛によって国力を衰退させます。
1584年、18代寒河江高基の時代、
村山地方の統一を目指す最上義光によって
攻め滅ぼされる事となりました。
こちらの駒形堂は本丸に建立されていたお堂で
代々寒河江城主の信仰が厚かったとされます。
寒河江城二の丸堀跡
寒河江大江氏の滅亡後、
最上義光によって寒河江城は接収され
嫡男義康が居城し統治される事となります。
1600年、東北の関ヶ原慶長出羽合戦では
上杉軍が最上領へと侵攻を進めると
義康は伊達政宗に援軍を求める最中
中山楯主中山玄蕃が防備を固めましたが
上杉軍の猛攻により落城します
徳川家康の勝利により関ヶ原の合戦後、
寒河江城には次男家親が一時在城、
1609年〜1610年頃山形城に移ると、
寒河江大江氏の支族寒河江光俊が
27000石で入城し統治を行いました。
寒河江城辰巳門跡(澄江寺山門)
1622年、家臣団の内紛により最上家は改易、
寒河江城は山形藩鳥居氏に預けられ
この時幕命によって本丸を残し
二の丸・三の丸の土塁が崩され濠が埋められると、
1636年、寒河江が幕府領になるにともない
寒河江城は廃城となりました。
寒河江市澄江寺にあります山門は
寒河江城三の丸にありました
辰巳門を移築したものになります。
寒河江小学校(寒河江城本丸跡)
現在城跡は市の中心街となり
本丸跡は寒河江小学校の敷地となっており
遺構はほとんど残されておりませんが
二の丸西門にあたる小学校の西側に
寒河江城跡の碑が残されております。
寒河江市に観光に訪れましたら
ぜひ寒河江城の歴史にも触れてみてください
以上
寒河江城の歴史と史跡のご紹介でした。
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