どーもKABUOです。
山形県西村山大江町の
歴史と史跡を巡る旅に行って来ました。
今回は寒河江大江氏の支城で
中世の頃に築城された
左沢楯山城の歴史と史跡をご紹介します。
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左沢楯山城の歴史と史跡をご紹介!🏯
左沢楯山城
朝日少年自然の家
左沢楯山城の歴史は14世紀後半に
寒河江大江氏七代大江時茂の
三男左沢元時により築城されたと
伝えられています。
時は足利尊氏と後醍醐天皇が争った
南北朝動乱の時代、大江氏は南朝方に与し
西村山を中心に勢力を誇っておりましたが
1356年、北朝方の斯波兼頼の入部、
そして大江一族でありながら
北朝廷に与した長井氏の争乱の備えとして
一族を白岩、溝延、柴橋と各地に配置すると
村山地方と置賜地方を結ぶ軍事上の要地である
この地に山城を築城したと考えられます。
左沢楯山城は
最上川を天然の堀に見立てた
自然を活かした天然の要害で
大江町最上橋からは城の全貌が望め
現在少年自然の家が併設されています。
左沢楯山城の場所です。
左沢城三の丸跡
1368年、大江氏と斯波氏の両軍が
大江町本郷付近で合戦が行われると
斯波氏の巧みな奇襲作戦により大江氏は敗北
一族60数名と共に城主元時は自害、
左沢氏はその後、宗家寒河江大江氏と共に
北朝方の室町幕府軍に降りましたが
所領は安堵される事なり
子孫は代々左沢楯山城主として
この地を統治しました。
左沢楯山城には駐車場が完備され
三の丸跡となっており案内板の他に
東屋とトイレが完備されています。
二の丸跡
しかし福島伊達郡で勢力を広げた
伊達政宗(伊達氏9代目当主の方)の軍勢が
置賜地方に侵攻を進め長井氏を滅ぼすと、
山形県朝日町五百川溪谷を境に
伊達氏と接し影響を受ける事となります。
1479年、伊達氏配下桑折宗義が
寒河江城に侵攻を進めますが
左沢氏・白岩氏・溝延氏と一族が一致団結し
伊達氏を誘い込み撃退する事に成功しました。
三の丸にあります東屋から
二の丸に続く階段が整備されており
二の丸史跡跡に向かうことが出来ます。
夏場再度訪問したところ、
雑草や藪が伸び放題で散策が難しくなるので
夏場以外に訪れる事をおすすめします。
主郭までの道
1500年以降、 最上氏の勢力の増大により
度々寒河江大江氏氏は領土を侵攻され、
また同族同士の争いが起こるようになると
大江氏の力は徐々に弱体する事となります。
1584年、 最上義光が
村山地方を制覇するなか
寒河江大江氏は打つ手が見つからず
居城寒河江城に攻め込まれ寒河江氏は滅亡
残された左沢氏は最上氏に従順しました。
現在主郭までの整備がされておりますが
所々工事車両が出入りしており
関係者以外入れないところもありますので
朝日少年自然の家さんの受付で
許可をもらってから散策を行ってください
主郭までの道中を歩くと城の全体を望める
見晴らしがよい場所に到着ができ
三の丸の反対側を確認する事が出来ます。
主郭跡(八幡座)
寒河江大江氏の滅亡後、
最上義光の支城として使用され
長尾右衛門が城代として
入城を果たしましたが
1622年、最上家の改易されると
左沢には庄内藩主酒井忠勝の弟、
直次が入城し左沢藩を立藩、
しかし太平の世が続き
戦国時代の戦いの城では統治をしにくいと
新たに小漆川城を築城、
左沢楯山城は廃城となりました。
こちらは八幡座と呼ばれており
この場所に宗教施設に利用された
主殿があったとされ
左沢楯山城の主郭になります。
宗教施設とは恐らくですが
城に鎮座されていた八幡神社だと思われ
酒井直次の入部にあたり参拝に不便なため
大江町横町に移築移転した歴史がありました。
現在左沢楯山城は公園整備され
公園から見える最上川の絶景は
日本一公園と称される程
見事な景色が広がっております。
山形県に観光にお越しの際は
左沢楯山城の散策に訪れて見てください
以上
左沢楯山城の歴史と史跡の
ご紹介でした
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左沢楯山城の歴史と史跡
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