どーもKABUOです。
山形県朝日町にあります中世のお城跡、
八ッ沼城の史跡調査を行いました
城主原氏や春日沼と弥生姫の民話、
お城の歴史や史跡の様子を中心に
前編・後編と2部に分けてご紹介します。
前回の記事はこちらです。
今回は八ッ沼城の史跡を中心に
最上義光時代の歴史をご紹介します。
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八ッ沼城の歴史と史跡をご紹介!
八ッ沼城の入り口
観音堂と虚空蔵堂
八ッ沼城を散策するには
トイレが整備されている西側の駐車場か
もしくは春日神社があります
東側の駐車場をに停車すれば散策出来ますが、
春日神社がある駐車場から
八ッ沼城の入り口は近いのですが
車道が狭くあまりおすすめ出来ませんので
車でお越しの際は駐車場が広い
西側の駐車場を利用してください。
こちらが八ッ沼城の入り口。
看板が立てかけられており
階段を少し登ると観音堂と虚空蔵堂が見え
そこから本丸へと山道が続きますが、
傾斜は比較的ゆるくとても歩きやすので
簡単に散策が可能となっています、
人見穴
二重からぼり
先程のお堂から少し歩くと
こちらの史跡に到着。
人見穴は城内に設置された深さ3mほどの
落とし穴とも隠れ穴とも言われ
敵が城内に入り込んだ際、
足止めに使用されたと考えら、
二重からぼりは箱堀は長さ20m
幅5m、深さ3m、堀切は1mもある
二重空堀で八ッ沼城最大の遺構になります。
七ッ井戸
旗立森
本丸近くにあります七ッ井戸と旗立森
七ッ井戸に岩盤を掘削して作られた
集水用の七つのくぼみ跡が残されており
旗立森は現在は木々で覆われておりますが
当時は見張り台としての役目を担って
場所だとされております
八ッ沼城本丸跡
五百川合戦の後、
最上義光によって八ッ沼城は接収、
五百川の地は置賜を統治する
伊達氏に対する備えとして使用します、
1600年、会津・置賜の地を受け賜った
上杉景勝、直江兼続は徳川家康と相対し
そして関が原の合戦へと発展、
慶長出羽合戦と呼ばれる
東北を舞台にした戦いが行われました。
水口楯跡(ときわ楯山れきし公園)
朝日川
西軍に与した上杉軍は
東軍に与した最上義光の領土に侵攻、
八ッ沼城主望月隼人は
水口楯の前を流れる朝日川で上杉軍と交戦、
隼人は上杉軍相手に良く奮戦しましたが
八ッ沼城は落城、自刃して果てました。
その後、東軍の勝利によって
関ヶ原の戦いは終結、
上杉軍は最上領土から撤退を行います。
戦後、最上義光四男山辺義忠によって
八ッ沼城には城代が置かれ
領地の統治が行われましたが
1622年、幕府の命により最上家は改易、
八ッ沼城は廃城となったと思われます。
春日神社
春日神社前の駐車場
現在八ッ沼城跡は公園整備化されており
こちらの春日神社は
八ッ沼城三代目原慶秀が信仰していた
春日明神を勧請し創建された神社で
毎年8月15日に神輿渡御、八ッ沼獅子踊り、
奴振りなどの大名行列が盛大に行われています
朝日町に訪れましたら
ぜひ八ッ沼城の史跡巡りを行ってみてください。
以上、
八ッ沼城の歴史と史跡のご紹介でした。
こちらが史跡のアクセス場所です
寒河江市・西村山郡の城跡
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