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朝日町 八ッ沼城の歴史と史跡をご紹介!(前編)🏯

どーもKABUOです。

 

山形県朝日町にあります中世のお城跡、

八ッ沼城の史跡調査を行いました

城主原氏や春日沼と弥生姫の民話、

お城の歴史や史跡の様子を中心に

前編・後編と2部に分けてご紹介します。

 

 

 

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八ッ沼城の歴史と史跡をご紹介!

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八ッ沼城跡(五百川城跡)
 

朝日町三中にあります標高286mの

小高い山に築城された八ッ沼城。

別名五百川城とも呼ばれており

その歴史は古く1090年、

若狭蔵人という人物が源義家に従い

現在の秋田県横手市で起きた内乱、

後三年の役に従軍すると

清原氏の残党・平田次郎・五郎を

討ち取った功績が認められ

八ッ沼の地を受け賜り移り住み、

砦を築いたのがはじまりだとされています。

 

八ッ沼城は最上川を自然の堀に見立てた

天然の要害で近くの八ッ沼ふれあい会館からは

町並みの素晴らしい景色が望めます。

 

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建久年間(1190〜98年)

蔵人の子孫重経が奥州合戦に従軍、

藤原泰衡の家臣・谷川右京を討伐したとされ

その後、源頼朝から恩賞でこの地を安堵され

五百川と称し八ッ沼に新たに塞を築き

この地の統治を続けましたが

しかし正平年間(1346年〜69年)に

長崎城主大江綱房と戦い討死し、

若狭氏は滅亡しました

 

八ッ沼城に向かう最中、

春日沼の駐車場と若宮寺に行く道中に

こちらの案内図が掲げられており

お城や周りの史跡がよく分かりますので

ぜひ確認してみてください

 

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若宮寺

 

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城主原甲斐守忠重の碑

 

文明年間(1467年〜1487年)、

応仁の乱で東軍総大将を務めた

細川勝元の家臣、敦賀城主原頼貞が争乱に敗れ

この地に来住し新たに築城したのが

現在の八ッ沼城だと伝えられており

この地を統治します。

 しかし1565年、または 1584年、

5代目当主原忠重の時代、

村山地方で勢力を延ばす

最上義光は武力制圧を行いました。

 

この戦いは五百川合戦と呼ばれており 

忠重と家臣小関加衛門、客僧羽黒弁寛は

500の兵を持って奮戦を行いましたが

八ッ沼城は落城、原氏は滅亡しました。

 

こちらの若宮寺は八ッ沼城主原氏の

菩提寺だったところで、

境内には五百川合戦で敗れ討死した

原忠重の碑が建てられています。

 

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果沼の薬師堂

 

五百川合戦にはこのような

逸話が残されています。

 
八ツ沼城主、原甲斐守忠重に

原半兵衛兼道という若君がおった。

また鳥屋ヶ森城主というと、岸美作守に

それは美しい弥生姫という息女がおったそうだ。

果沼のお薬師様のお祭りに二人が出会い、

見初めるようになった。

半兵衛兼道が弥生姫を八ツ沼の名勝地春日沼に誘い、

二人は楽しい一時を過ごしていた。

 

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春日沼

 

和合に和合但馬守秋広侍がいて、

その日に最上川で釣りをしていたが釣れなくて、

春日沼で釣をしようと春日沼に来ていた。

たまたまそこで半兵衛兼道と一緒にいる

弥生姫をみて一目ぼれをしてしまう。

和合但馬守は弥生姫を奪おうとしたが、

反対に半兵衛兼道の警護の侍に

おっぱらわれてしまった。

その後半兵衛兼道と弥生姫の

結婚話はとんとんと進み婚約した。

おもしろくないのが和合但馬守で、

花嫁を略奪せんと宮宿清水の渡し場で待ち伏せし、

むがさりの行列を襲ったが、

行列を守っていた侍におっぱらわれて退散した。

 

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弥生姫像

 

腹の虫が納まらない和合但馬守は、

山形城主最上義光に

八ツ沼城主、原甲斐守忠重と

鳥屋ヶ森城主、岸美作守が

山形城をねらっていると讒言した。

その讒言により最上義光が兵を動かした。

これが五百川合戦の原因と言われている。

多勢に無勢、八ツ沼城に敗戦の色が濃くなったころ、

半兵衛兼道と弥生姫は二人そろって死のうと、

お城の後ろ側にある屏風谷へ下り、

春日沼に身を沈めた。

そして夫婦岩になったと言われている。

(朝日町エコミュージアム引用)

 

八ッ沼城北側にあります春日沼には

雌雄の竜神が住むと伝わり

禍いが起こる時や世の中に異変が起きる時に

水の色が赤くなるとも伝わり

また沼の東側には五百川合戦で討死した

原忠重の子、兼道と共に入水した

悲劇の弥生姫の像が建てられており

湖面に木の葉が一枚浮いていないのは

弥生姫が毎朝掃除するからとも

伝えられております。

 

以上、八ッ沼城の歴史のご紹介でした

次回は最上義光時代の歴史や

お城の現在の様子と残された史跡の様子を

ご紹介します。

 

次回の記事はこちらです

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寒河江市・西村山郡の城跡

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