どーもKABUOです。
旅に行ってきました。
上山市の歴史を原始古代から
中世戦国時代、近世江戸時代
そして近現代と二部に分けてご紹介。
前回の記事はこちらです。
今回は近世江戸時代の上山藩の歴史や
斎藤茂吉等の近現代までの歴史や史跡を
ご紹介します。
上山市の歴史と史跡をご紹介(近世江戸時代〜近現代編)🏯
上山城(月岡城)
月岡神社
近世江戸時代
1622年、能見松平氏が
上山城に入部し上山藩が立藩。
しかしその後、蒲生氏・土岐氏・金森氏と
目まぐるしく藩主が変わるなか
1697年、藤井松平氏が入部し
以後、明治時代まで
150年以上に渡り統治される事となります。
上山城と上山藩の歴史と史跡を
詳しく紹介した記事はこちらです
栗川稲荷神社
こちらの栗川稲荷神社は
藤井松平氏が城中守護神の神として奉祀され、
厚く信仰された歴史のあり
800余の鳥居と120余基の石灯籠が並び
縁結び、商売繁盛、金運に
ご利益があると言われ
非常に見ごたえがある神社となっています。
鶴の休石
上山城を中心に町が形成されるなか
青森から福島を結ぶ羽州街道が整備されると
上山は温泉が湧き出る宿場町として
参勤交代の人々や荷物の往来の他に
出羽三山参拝の精進落としの場所として
大変栄えて歴史がありました。
かみのやま温泉の歴史ですが
かみのやま温泉」は、長禄2年(1458)、
旅の僧が、沼地に湧く湯に
一羽の鶴が脛を浸し、
傷が癒えて飛び去る姿を見かけたのが
はじまりとされています。
よく見るとその場所から温泉が湧き出ており、
それが「かみのやま温泉」湧出の
きっかけとなったと伝えられています。
湯町地区にある「鶴の休石」は、
その鶴が休んだ石で、
「かみのやま温泉」発祥の地とも
言われています。
月秀上人はその後、浄光寺を開山したとされ
手厚く加護ました。
楢下宿脇本陣滝沢屋
覗橋
上山市楢下地区、
上山から高畠、七ヶ宿を結ぶ
交通上の要地であった為
最上義光と義守親子が争った
天正最上の乱の際、義守に味方した
伊達輝宗が連日のように当地に
出馬した歴史が残されております。
江戸時代に入り金山峠を越え七ヶ宿へと向かう
羽州街道が整備されると楢下地区には
宿場町が整備される事となり、
江戸時代主要街道として多くの人々が往来、
その歴史的価値から
羽州街道楢下宿金山越として
国の指定史跡にも指定されました
楢下地区を歩きますと
往時の町並みがそのまま残されており
明治初期に建造された覗橋は
土木学会選奨土木遺産にも選ばれています。
五巴神社
牧野村庄屋屋敷跡
上山藩は4万石程の石高だったとされ
小藩ながらの財政難に苦しめられます。
1745年、翌年から続く冷害と
天候不順のため米穀大凶作に見回れ
多くの民衆の生活は困窮に貧しておりました。
また米高を見込み商人は小売りを停止した為、
日毎に米価が暴騰、特に貧乏人はひどく
餓死者が続出します。
1747年、町人は飢えと
この暴虐なる措置に対し実力行使に訴え
農民3千人と共に一揆を起こし
藩に陳情を行う事が出来ました。
しかしその後、首謀者は捕らえられ
打ち首獄門の刑に処せられました
こちらの五巴神社は
その時の処刑者の霊を慰めるために、
1896年に創建された神社で
境内にあります牧野村庄屋屋敷跡は
首謀者として処刑された
牧野村庄屋太郎右衛門の屋敷跡で
市の指定文化財に登録されています
宝泉寺
近代明治時代、
1882年、近代歌界の巨峰とされる
茂吉は15歳で上京するまでこの地で育ち
特に生家隣の宝泉寺の佐原窿応和尚の
強い感化と影響を受けました。
金瓶地区には茂吉の生家や
関連する史跡が残されており
記念館では茂吉の作品や遺品の
展示物が並んでおります。
旧山元中学校
山びこ学校の碑
近現代昭和。
1951年、山元中学校に就任した
無着成恭先生によって
教え子たちが雪国の農家の
厳しい生活をつづった詩や作文をまとめた
山びこ学校が発刊されると
当時戦後民主主義の教育方針を模索するなか
生徒が自らが考え討議し実践する
教育が注目を集め本はベストセラーとなり、
映画化される事となりました
上山市狸森地区にあります
旧山元中学校には山びこ学校刊行を
記念して作成された
山びこ学校の碑が置かれております。
現在上山市では城下町と温泉を行かした
観光地として注目を集め
果樹園やワインの製造にも力を入れております。
山形県に観光にお越しの際は
ぜひ上山市にも訪れてみてください
以上
上山市の歴史と史跡のご紹介でした。
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